期待値を削る会社
新しい商品や娯楽が世に出るとき、人々はいつも同じ物語を信じる。作り手はより良いものを届けようとしている、という物語だ。だが長く続くサービスの世界では、事情が少し違う。そこでは驚きを増やすことより、驚きを増やしすぎないことの方が重要になる。ある企業の内部で語られた短い言葉は、この静かな仕組みをよく表している。過剰に与えるな。いったい誰のための言葉なのか。その意味を日常の小さな出来事からほどいていく。
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- 期待値管理、長期サービス、企業文化、信頼残高
無料のパン屋
町の角に小さなパン屋がある。開店の日、店主は張り切っていた。パンを買った客に、焼きたての菓子パンを一つおまけで渡した。香りがよかった。評判はすぐに広がった。
翌日も客は列を作った。人々はパンを買い、そして当然のように菓子パンを待った。店主は少し迷ったが、やはり一つ渡した。
一週間後。客はこう言うようになった。
「この店はパンを買うと菓子パンがついてくる」
それはもうおまけではなかった。店の特徴になった。
ある日、店主は忙しくなった。菓子パンを焼く余裕がなかった。そこで普通のパンだけを渡した。すると客は眉をひそめた。
「今日はおまけがないんですか」
店主は少し驚いた。パンは昨日と同じだ。何も減っていない。だが人々の顔は、なぜか損をしたようだった。
店主はその夜、帳簿を眺めながら考えた。最初に配ったあの菓子パンは、いったい何だったのだろう。
贈り物だったのか。
それとも、未来の基準だったのか。
見えない基準線
長く続く店では、不思議な現象が起きる。人は一度経験したことを、すぐに「普通」に変えてしまう。
豪華な夕食を食べた翌日、同じ料理を期待する。速い列車に乗れば、それが当たり前になる。
驚きは保存されない。基準線だけが残る。
この仕組みを理解した店主は、ある工夫を思いついた。最初から菓子パンを配らないことだ。
おまけがなければ、客はそれを待たない。待たれなければ、店は責められない。
昨日の贈り物は、明日の義務になる。この式に気づくと、多くの店は同じ結論にたどり着く。
最初から贈り物を減らそう。
すると奇妙な光景が生まれる。人々は店の努力ではなく、店の慎重さを見るようになる。
宣伝係の拡声器
しかし、この話にはもう一人登場人物がいる。店主ではない。宣伝係だ。
宣伝係の仕事は、町中に声を響かせることだった。
「この店はすばらしい!」
「今までにない体験!」
拡声器は大きいほどいい。期待が大きいほど、開店の日の列は長くなる。
だが店の奥では、別の会話が続いている。
「驚きを増やしすぎるな」
宣伝係は声を大きくする。厨房は静かに量を測る。
二つの動きは反対向きだ。片方は空を膨らませ、もう片方は地面をならす。
二つの式が同じ店の中にあるとき、不思議な影が生まれる。客は宣伝の声を聞いて来る。帰るとき、厨房の静けさを感じる。
その差が、店の評判になる。
静かな帳簿
しばらくすると、店主は別の帳簿を作るようになる。それは売上の帳簿ではない。
評判の帳簿だ。
最初の日、人々はこう言う。
「素晴らしい店だ」
十回目の日。
「まあ普通だ」
二十回目の日。
「最近は変わらない」
帳簿の数字は減らない。だが別の数字が、少しずつ削れていく。
店主は気づく。菓子パンは小麦でできているが、評判は別の材料でできている。
それは静かに積み上がる。そして静かに削れる。
ある夜、店主は看板を見上げる。そこには店の名前が書いてある。
だが店主の目には、別の文字が浮かんでいる。
「驚かせすぎるな」
その言葉は、客のためではなかった。厨房の未来のためでもなかった。
それは、帳簿を穏やかに保つための言葉だった。
そして翌朝、宣伝係はまた拡声器を持って町へ出る。
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