やられた人が同じことをする理由
誰かに厳しく扱われた人は、やがて別の誰かに同じことをする。多くの場合、それは「心の傷」や「過去の影響」と説明される。だが日常をよく観察すると、別の仕組みが見えてくる。ある場所で受けた扱いは、別の場所で再現される。そこには感情よりも、ずっと単純な流れがある。本稿は、その静かな循環を日常の出来事からたどり、なぜ同じ振る舞いが繰り返されるのかを描く。
- キーワード
- 上下関係、通過儀礼、繰り返し、連鎖
最初の一段
古い団地の階段を思い出す。
昼間でも少し薄暗く、コンクリートの段が長く続いている。
そこを上がるとき、前の人が立ち止まれば、後ろの人も止まる。
押しのけて進むことは、あまりない。
ある会社の休憩室で、似た光景を見た。
新人が叱られている。声はそれほど大きくないが、部屋の空気は重くなる。
先輩は言う。
「自分も同じことを言われてきた」
それは珍しい言葉ではない。
学校でも、部活でも、家庭でも、よく聞く言葉だ。
叱る側の顔はどこか真面目で、むしろ誠実に見える。
その場にいる誰もが、少しうなずく。
たいていの場合、そこには説明が添えられる。
厳しくされるのは成長のためだ、とか。
昔からそうしてきた、とか。
人はそれを、教育とか経験とか、そういう言葉でまとめる。
だが階段の踊り場で立ち止まると、少し別の景色が見える。
この光景は、どうしてこんなにきれいに繰り返されるのだろう。
通過した印
ある人が若いころ、毎日のように怒鳴られていたとする。
理不尽に感じることも多かった。
それでも、時間が経つと話し方が変わる。
「あれも必要だったのかもしれない」
そう言う人は多い。
不思議なことに、同じ人が後輩を持つと、似た調子になる。
言葉の選び方まで似てくる。
叱られた日々をそのまま思い出しているわけではない。
むしろ、その出来事は少し整えられている。
つらかった記憶は、少し形を変える。
丸くなる。
もしその出来事を、ただの無意味な苦しさだったと認めてしまうと、長い時間が空白になる。
だから人は言う。
「意味があった」と。
その言葉は、たいてい穏やかだ。
だが、次の瞬間、同じ形の叱責がどこかで始まる。
新人が先輩になり、先輩がさらに上へ移る。
階段は、ずっと続いている。
静かな循環
ここで少しだけ視点を変えてみる。
会社でも学校でも、順番は決まっている。
下にいる人は上に動く。
すると、ある不思議なことが起こる。
昨日まで叱られていた人が、今日は叱る側になる。
そこに大きな合図はない。
ただ席の位置が少し変わるだけだ。
そのとき、心のどこかで計算が行われる。
この式は、紙に書かれることはない。
だが多くの場所で、静かに動いている。
理由は単純だ。
もし自分が受けたことを無意味だと認めてしまうと、長い年月の説明がつかなくなる。
だから同じ形を次へ渡す。
そうすると、過去の出来事は急に整う。
「あれは必要だった」という言葉が、自然に聞こえるようになる。
そして階段は保たれる。
誰も崩さない。
最後の踊り場
団地の階段には、たまに踊り場がある。
そこから下をのぞくと、段がずっと続いているのが見える。
会社の休憩室でも、似た瞬間がある。
新人だった人が、初めて誰かを叱るときだ。
言葉を選びながら、少し考える。
ほんの短い時間だ。
そのあと、多くの人は同じ調子で話し始める。
「自分もそうだった」
その言葉が出た瞬間、階段はまた一段伸びる。
そして次の誰かが、同じ段を上がる。
団地の階段は古くても壊れない。
なぜなら、誰もその構造を疑わないからだ。
同じように、人のあいだにも長い階段がある。
そこでは、誰かが上へ進むたび、下にもう一段できる。
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