熊のいない町の電話

要旨

山あいの町では、夜になると熊が下りてきた。畑は荒らされ、犬は吠え、人は玄関を二重に閉める。だが電話をかけてくる者たちは、その町に住んでいなかった。彼らは遠い場所から、銃を持つ男たちへ静かな正しさを要求する。危険の届かない場所にいる者ほど、手を汚さずに美しい言葉を口にできる。町が本当に欲していたのは意見ではなく、夜道を歩ける朝だった。

キーワード
熊、電話、町、猟師、静かな正義、夜道、遠距離、責任、山、沈黙

山の影が道路を渡るころ

町には古い放送塔があった。夕方になると、役場の女が決まった声で注意を流す。

「本日午後六時十分、熊の目撃情報がありました。住民の皆様は不要な外出を控えてください」

それは天気予報みたいに流れた。春にも流れ、夏にも流れた。誰も驚かなかった。

ただ、子どもだけは少し変わった。以前は川沿いで遊んでいたが、最近は学校が終わるとまっすぐ帰るようになった。夕方の道に人影が消えるのが早くなった。

八百屋の主人は、閉店時間を一時間繰り上げた。新聞配達の少年は、自転車のかごに鈴を付けた。郵便局の女は、局舎の裏口に棒を立てかけた。

町は少しずつ静かになった。

それでも、熊そのものを見た者は意外と少ない。畑の跡だけが残る。壊れた柵。裂けた袋。泥のついた窓。夜中に鳴る犬。

見えないものは、長く話題にならない。

だが、ある朝、小学校の裏山に熊が出た。

猟師の佐久間が呼ばれた。六十八歳だった。町に残っている猟師は四人だけで、そのうち二人は膝が悪かった。

佐久間は軽トラックで来た。煙草のにおいをさせながら校庭を歩き、足跡を見て、「まだ近いな」と言った。

先生たちは校舎の窓からそれを見ていた。

熊は林の中にいた。見えないが、枝が折れる音だけがした。

子どもたちは体育館へ集められた。

その日の午後、熊は撃たれた。

翌朝から電話が鳴り始めた。

受話器の向こうには山がない

電話は役場に来た。

「どうして殺したんですか」

「山へ返せなかったんですか」

「命を何だと思っているんですか」

電話の声は若かった。穏やかな口調の者もいたし、怒鳴る者もいた。

ただ、一つだけ共通していた。

その声の後ろに、山の音がしなかった。

風の音もない。犬も吠えない。遠くを走る軽トラックも聞こえない。

静かな部屋の空気だけがあった。

役場の若い職員は、何度も同じ説明をした。

  • 学校の近くだったこと
  • 子どもがいたこと
  • すでに畑を荒らしていたこと
  • 人へ近づく癖がついていたこと

だが電話の向こうでは、別の話が続いた。

「それでも命でしょう」

「人間の都合じゃないですか」

「かわいそうだと思わないんですか」

若い職員は途中で気づいた。

説明をしているつもりだったが、相手は説明を求めていない。

確認しているのだった。

自分が汚れていないことを。

遠い場所の正しさ = 手の汚れなさ × 音の聞こえなさ

佐久間の家にも電話が来た。

番号はどこかで知られたらしかった。

夜、酒を飲んでいると電話が鳴る。

「熊を殺して楽しいですか」

佐久間は最初、怒鳴り返していた。だが途中から何も言わなくなった。

黙って切るようになった。

ある夜、孫が聞いた。

「じいちゃん、悪いことしたの」

佐久間は少し考え、それから湯呑を置いた。

「熊が悪いわけでもない」

そう言って、それ以上しゃべらなかった。

次の日、町の畑でまた熊が出た。

だが佐久間は動かなかった。

空のきれいな町

それから少しずつ、町は変わった。

猟師の一人が免許を返した。別の一人は、「もう呼ばれても行かない」と言った。

役場の職員は疲れていた。

熊が出れば住民に怒鳴られ、撃てば外から電話が来る。

誰も代わりに山へ入ってはくれない。

電話だけが来る。

町には奇妙な空気が生まれた。

誰も責められたくなかった。

だから誰も決めたがらなかった。

会議だけが増えた。

紙だけが増えた。

貼り紙だけが増えた。

「注意してください」

「刺激しないでください」

「落ち着いて行動してください」

その紙を書いている間にも、夕方の放送は流れた。

秋になるころには、熊は町に慣れていた。

人の匂いを怖がらなくなった。

ゴミ置き場を荒らし、倉庫へ入り、犬小屋の前まで来た。

だが町の外では、相変わらず別の話が続いていた。

自然との共生。

命の重さ。

優しい社会。

その言葉は柔らかかった。柔らかすぎて、誰もそれを持って夜道を歩かなかった。

ある晩、商店街の裏で事故が起きた。

配達帰りの男が襲われた。

命は助かったが、顔に深い傷が残った。

ニュースになった。

すると、今度は別の電話が来た。

「なぜ早く対応しなかったんですか」

「危険だったなら、なぜ放置したんですか」

役場の職員は、受話器を持ったまま黙っていた。

受話器の向こうの人々は、自分が前に何を言ったか覚えていないようだった。

いや、覚えていたとしても、関係がなかった。

電話は、その瞬間だけ正しければよかった。

引き金を引かない者ほど、結果だけを撃ち抜こうとする

最後に残った男

初雪の前の日、また熊が出た。

今度は保育園の近くだった。

役場は佐久間へ電話した。

だが、なかなか出なかった。

十分後、ようやく繋がった。

「もう無理だ」

佐久間はそれだけ言った。

「撃っても怒鳴られる。撃たなくても怒鳴られる。だったら若いのがやればいい」

しかし若い者はいなかった。

町に残っていなかった。

結局、県から応援が来るまで保育園は閉鎖になった。

親たちは困った顔をした。

店も早く閉まった。

人通りが消えた。

その夜、佐久間は一人で外へ出た。

雪の前の空気は静かだった。

遠くで犬が鳴いた。

しばらく歩くと、川沿いの道に熊がいた。

黒い塊が街灯の下に立っていた。

熊は逃げなかった。

佐久間を見ていた。

佐久間も黙って見ていた。

ふと、役場の電話の声を思い出した。

命を大切にしてください。

殺さないでください。

かわいそうです。

そのどれもが正しかった。

ただ一つだけ、抜けていた。

誰がここへ来るのか、という話だった。

熊は鼻を鳴らし、ゆっくり町のほうへ歩いていった。

佐久間はそれを止めなかった。

その背中を見送りながら、少しだけ笑った。

明日の朝、また電話が鳴るのだろうと思った。

コメント

このブログの人気の投稿

感情の手紙と確かめられぬ事実

静かなる信号機の守衛

フレンドリストの底で眠るもの