正しい町の静かな欠陥
ある町では、皆が同じ方向を向いて暮らしていた。学校も店も役場も、その向きこそが正しいと教えていた。町の人々は、自分たちが善良だから同じ方向を見るのだと思っていた。しかし実際には、逆を向く者を嫌う仕組みが先にあり、その結果として「正しさ」が生まれていた。時代が変わるたびに町の向きも変わったが、人々は毎回、自分たちこそ最初から正しかったと言い続けた。
- キーワード
- 常識、正義、町、方向、沈黙、多数、記憶、看板、秩序、錯覚
朝の看板
その町には、大きな看板があった。
町の中央広場に立っている、白い鉄の看板だった。そこには、いつも短い文章が書かれていた。
「正しい人は東を向く」
ただ、それだけだった。
子どもは学校へ行く途中で看板を見る。大人は会社へ行く前に見る。老人は散歩のついでに見る。誰も疑わなかった。東を向くことは、礼儀正しさや清潔さと同じ種類のものだった。
ある朝、ひとりの男が広場で西を向いて立っていた。
通行人は少し驚いたが、すぐに視線をそらした。男は怒鳴っていたわけでも、誰かを殴ったわけでもない。ただ静かに西を見ていた。
昼になるころには、町の人々はこんな話を始めた。
- 何か事情があるのだろう
- 疲れているのかもしれない
- 変わった人間は昔からいる
しかし夕方になるころには、言葉が少し変わった。
- 子どもが真似したら困る
- 町の空気が悪くなる
- ああいう態度は不快だ
男は何もしていなかった。ただ向きが違っただけだった。
翌朝、看板の下には警備員が立っていた。
静かな町ほど看板は疑われなくなる
消えない染み
町には古い写真館があった。
壁には百年前の写真が並んでいる。そこには、皆が北を向いて立っていた。
今とは違う。
さらに古い写真では、南だった。
写真館の主人は言った。
「昔は北が正しかったんですよ」
彼は冗談のように笑ったが、誰も笑わなかった。
町の人々は、その写真を見るたびに少し不機嫌になった。なぜなら、自分たちは最初から東を向いていた気がしていたからだ。
人は、自分の足元が動いているとは考えない。動いているのは、いつも他人のほうだった。
町の学校では、教師がこう説明していた。
「昔の人々は知識が不足していた。しかし今は違います」
すると生徒たちは安心した。
自分たちは、もう間違えない側にいると思えたからだ。
だが、写真館の主人は知っていた。
百年前にも、教師はまったく同じ顔で同じことを言っていた。
北を向きながら。
町の人々は、向きが変わるたびに言葉だけを入れ替えていた。だが、不思議なことに、毎回、自分たちは「昔から正しかった」と感じていた。
記憶は塗り替えられていた。
看板だけが残った。
静かな多数決
ある日、役場が新しい装置を導入した。
広場に立つ人々の向きを記録する機械だった。
毎晩、町役場の壁に数字が表示された。
「東を向いた人 九八・二パーセント」
人々はその数字を見て安心した。
自分は間違っていないと思えたからだ。
だが奇妙なことが起きた。
数字が表示され始めてから、西を向く人間はさらに減ったのである。
誰も命令していない。
罰金もない。
それでも、人々は数字に従った。
町の空気には、見えない湿気のようなものがあった。逆向きで立つと、喉に薄い膜が張りつくような感じがした。
人々はそれを「良識」と呼んだ。
役場の男は満足そうに言った。
「ほら、みんな自然に正しい方向を選ぶ」
だが実際には逆だった。
先に数字があり、その数字に怯えた人々が向きを揃えていた。
町は、自分で考える人間より、周囲を見る人間を増やしていった。
すると不思議なことに、東を向く理由を説明できる者は減っていった。
理由は消えた。
習慣だけが残った。
正しい方向 = 多数が向く方向
その輪は、静かに閉じていた。
夜の広場
冬の夜だった。
広場にひとりの少女が立っていた。
彼女は東も西も見ていなかった。足元の石畳を見ていた。
すると、巡回中の警備員が近づいてきた。
「どうして東を向かないの」
少女は少し考えてから答えた。
「東が正しいから?」
警備員はうなずいた。
「みんなそうしている」
少女はさらに聞いた。
「じゃあ、みんなが先にいたの。それとも正しさが先にあったの」
警備員は黙った。
彼は初めて考えたのだった。
町の人々は、看板があるから東を向いているのか。
それとも、東を向く人間が多いから看板が立っているのか。
その境目は、どこにあるのか。
翌朝、少女はいなくなっていた。
広場はいつも通りだった。
人々は東を向き、店は開き、学校の鐘が鳴った。
だが、警備員だけは、ときどき広場の端を見るようになった。
そこには古い写真館がある。
百年前、皆が北を向いていた写真が、まだ壁に残っていた。
看板は今日も白かった。
そして町の人々は、その白さを「正しさ」だと思い続けていた。
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