待合室の椅子は減らない

要旨

町の病院には、毎日同じ顔が並んでいた。熱もない。咳もない。ただ、椅子が空いているから座る。薬は湿布や白い錠剤になり、会話は診察券になった。誰も悪意では動いていない。それでも廊下は混み続ける。減るはずだった病気より、増え続ける来院のほうが、静かに建物を支えていた。

キーワード
待合室、薬袋、無料の椅子、町医者、静かな習慣、白い建物、長椅子、診察券

朝九時の長椅子

駅前の古い病院には、朝九時になると決まった顔ぶれが集まっていた。

入口の自動ドアが開くたび、湿った消毒液の匂いが外へ流れる。受付の横には観葉植物が置かれ、その葉には毎日同じ角度で光が当たっていた。

待合室には長い椅子が六列あった。午前中にはだいたい埋まる。

診察券を出し終えた老人たちは、新聞を読んだり、テレビを見たりしていた。誰も急いでいない。診察室の前だけが、時間の流れから切り離されていた。

ある朝、灰色の帽子をかぶった老婆が、隣の席へ腰を下ろした。

「昨日は来なかったねえ」

声をかけられたもう一人の老婆は、膝に薬袋を乗せながら笑った。

「具合が悪くて寝てたんだよ」

二人はそれ以上説明しなかった。

窓の外では小学生が走っていた。待合室の時計は九時十五分を指していた。

その会話を聞いた若い看護師が、小さく笑った。だがすぐに視線を落とし、番号札を整理し始めた。

病院では、そういう話に意味を求めないほうが楽だった。

診察室では、医師が一人あたり三分ほどで患者を回していた。喉を見て、血圧を測り、前回と同じ薬を出す。机の横には、未開封の湿布の箱が積み上がっていた。

「前と同じのでいいですね」

ほとんどの会話は、それで終わる。

椅子が空いている = 行く理由になる

昼前になると、廊下はさらに混み始める。杖をついた老人が列をつくり、小さな子どもが泣き、母親はスマートフォンを見ていた。

受付の女性は、慣れた手つきで保険証を返していく。

誰も怒鳴らない。誰も奪わない。ただ静かに並ぶ。

だから、余計に奇妙だった。

白い袋の使い道

薬局には、夕方になると子ども連れの母親が増えた。

透明な仕切りの向こうで薬剤師が名前を呼ぶ。白い袋が次々にカウンターへ置かれる。

若い母親の一人は、化粧品売り場の話をしていた。

「あれ高いからさ。こっちでもらったほうが助かるんだよね」

袋の中には保湿剤が入っていた。

乾燥肌用として処方されたものだった。

別の母親は、子どもの鼻水が少し出ただけで病院へ来ると言った。

「どうせ払わないし」

その声は悪びれていなかった。

レジ袋を使うか聞くくらい自然な調子だった。

薬剤師は何も言わなかった。

言葉を挟めば、場の空気が止まる。列も止まる。説明も増える。店内に重たい沈黙が落ちる。

だから薬袋は流れ続けた。

病院の裏口では、営業車が段ボールを運び込んでいた。湿布、塗り薬、咳止め。どれも見慣れた箱だった。

医師は悪人ではなかった。

夜中に電話が来れば対応したし、休日でも診察した。高熱の子どもを抱えた親に怒鳴られたこともあった。

だから、軽い症状を断る気力は残らなかった。

診察して薬を出せば、その場は静かに終わる。

断れば、説明が始まる。

「せっかく来たのに」

「前は出してくれた」

「何のための病院なの」

それらを受け止めるより、処方箋を書くほうが早かった。

夕方になるころには、診察室の机の上にカルテが積み上がっていた。

一枚終われば、また一枚増える。

それは雪かきに似ていた。

減らない人たち

町では、新しい病院が建った。

ガラス張りの待合室にはカフェのような椅子が並び、テレビには健康番組が流れていた。

開院初日には長い列ができた。

無料送迎バスまで走っていた。

老人たちは言った。

「あそこは感じがいい」

「先生が優しい」

「薬も多めにくれる」

建物は明るくなった。椅子も柔らかくなった。

だが、町の病人は減らなかった。

毎年、薬局の棚は広がった。診察券の種類も増えた。だが待合室の混雑は消えなかった。

むしろ増えていた。

奇妙なことに、病院が増えるほど、病院へ来る人も増えた。

診療所の廊下には、昼を過ぎても人が残っていた。

湿布をもらう老人。眠れないと話す会社員。子どもの鼻を気にする母親。

誰も深刻な顔をしていない。

それでも建物は毎日いっぱいだった。

町役場では、医療費の数字だけが静かに伸びていた。

だが会議では別の言葉が使われた。

「安心の充実」

「支え合い」

「誰も取り残さない町づくり」

言葉は柔らかかった。

だから数字だけが浮いて見えた。

来るほど建物は潤い 治るほど静かになる

ある年、町の古い医院が閉じた。

院長が亡くなったからだった。

だが数か月後、その場所には別の診療所が入った。

待合室の椅子も、ほとんど同じ位置に並べられていた。

まるで、患者の形に合わせて床がへこんでいたようだった。

最後の診察券

冬の朝だった。

灰色の帽子の老婆が、また同じ席に座っていた。

隣には、あの日休んでいた老婆もいる。

二人とも前より少し背中が曲がっていた。

テレビでは健康体操が流れていた。

受付の横には、新しい消毒液の機械が置かれていた。

「今日は空いてるねえ」

帽子の老婆が言った。

「寒いからねえ」

隣の老婆が答えた。

その時、受付の女性が小声で話しているのが聞こえた。

「先生、今日は予約少ないですね」

診察室の奥で、医師が少し黙った。

それから、こんなことを言った。

「風邪、流行ってないのかな」

誰も笑わなかった。

待合室の時計だけが、静かに秒針を動かしていた。

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