風見鶏が折れた朝
人は一貫した人物を信用すると言われる。だが街を歩いてみると、昨日まで笑われていた言葉が、翌月には拍手で迎えられている。変わったのは言葉ではない。広場の向いている方角だった。多くの人は、自分の考えを守っているつもりで、実際には周囲の顔色に遅れないよう足を動かしている。風見鶏は風向きを示すために作られた。だがいつのまにか、人間の方が風見鶏を真似るようになった。
- キーワード
- 風向き、空気、同調、記憶、沈黙、拍手、広場、反転
屋根の上の鳥
駅前の古い喫茶店には、錆びた風見鶏がついていた。商店街の人間は、待ち合わせの目印にそれを使っていた。
「あの鳥の向いてる方だよ」
誰も名前を知らない鳥だった。だが毎日、同じように空を向いていた。
店主の老人は、暇になると窓からその鳥を見ていた。昼過ぎになると会社員が入り、新聞を読みながら世の中の話をした。ある日は有名人を叩き、別の日には同じ人物を褒めていた。
老人は不思議だった。
先月まで、誰もが「時代遅れだ」と笑っていた言葉が、数週間後には「大切な価値観」として並べられている。逆もあった。少し前まで称賛されていたものが、急に危険物のように扱われる。
だが客たちは、自分が変わったとは思っていない。
彼らはいつも、「最初からそう考えていた」という顔をしていた。
老人はある夜、店を閉めたあと、風見鶏を見上げた。風が吹くたびに鳥は向きを変える。だが誰も、それを裏切りとは呼ばない。
風見鶏は、風に逆らわないために存在しているからだ。
翌朝、店に来た若い会社員が言った。
「最近は一貫性が大事ですよね。昔の発言を掘り返されますし」
老人は黙ってコーヒーを置いた。
その男は、半年前には別の話をしていた。だが本人は覚えていないようだった。
人間は、自分が変わったことより、周囲から外れることを恐れている。老人はそんな気がしていた。
静かな塗り替え
街には小さな掲示板が増えていた。駅の柱にも、電車の中にも、食堂の壁にも、誰かの短い言葉が流れていた。
そこでは毎日、誰かが褒められ、誰かが吊し上げられていた。
不思議なのは、裁かれる理由が毎週変わることだった。
ある日は沈黙が悪とされた。
別の日には、軽率な発言が悪とされた。
さらに次の週には、過去の沈黙も軽率な発言も、同時に責められていた。
基準は変わり続ける。だが広場の熱だけは変わらない。
老人は、常連客たちの会話を聞きながら気づいた。
人々は、正しい言葉を探しているのではない。
今、笑われない位置を探している。
それだけだった。
だから彼らは、自分の考えを少しずつ削る。削った痕跡は残さない。昨日の言葉は、今日の空気に合わせて塗り替えられる。
しかも本人は、それを嘘だと思っていない。
街の人間は、自分の口から出た言葉より、周囲の表情を先に信じる。
「みんなが怒っている」
その事実だけで十分だった。
老人は気づいていた。広場では、真偽より先に拍手の数が置かれている。拍手が増えれば言葉は磨かれ、減れば汚物になる。
ある若者が、数年前から同じ考えを語り続けていた。昔は周囲も笑って聞いていた。ところが風向きが変わると、同じ言葉が危険視された。
若者は何も変えていない。
変わったのは、広場の顔色だけだった。
それでも責められるのは若者だった。
「まだそんなことを言ってるのか」
「更新されていない」
「今の感覚について来れていない」
老人は思った。
人々は、一貫している者を嫌っているのではない。今の列からはみ出している者を嫌っているのだ。
回る椅子の会議室
町役場には、大きな円卓があった。そこで毎週、町の方針が決められていた。
ただし議論は短かった。
誰かが口を開く前に、全員が互いの顔を見ていたからだ。
老人の知人に、そこで働く男がいた。
男は酒を飲むと愚痴をこぼした。
「みんな、自分で決めてるように見えて、実際には先に空気を読んでるんだ」
「最初に拍手したやつが勝つ。遅れると危ないから」
男は笑っていたが、目は乾いていた。
会議室では、最初に強い調子で話した者の側へ、全員の椅子が少しずつ回っていく。反対意見は、内容ではなく温度で処理される。
「今それを言うのか」
この一言で終わる。
老人は、その言葉が便利すぎると思った。
正しいかどうかを調べる必要がない。
ただ、「今ではない」と言えばいい。
広場の温度に合わないものは、それだけで処分できる。
しかも、その処分は暴力に見えない。
誰も殴らない。怒鳴らない。ただ笑うだけだ。
笑われた者は、自分の足で列の外へ出ていく。
老人は、昔の町を思い出していた。
以前は、風向きはゆっくり変わっていた。人間は、自分の考えを修理する時間を持てた。
だが今は違う。
朝に笑われた言葉が、夜には正義になる。
夜に称賛された人物が、翌朝には処刑台へ立たされる。
速度だけが増していた。
そのため、人々は考える前に振り向く癖を覚えた。
自分の頭の中より、広場のざわめきの方が速いからだ。
鳥が動かなくなった日
冬の終わりだった。
強い風が吹いた翌朝、喫茶店の風見鶏が折れていた。
鳥は半分だけ残り、妙な角度で止まっていた。
商店街の人々は見上げて笑った。
「古いから壊れたんだろ」
「新しいのに替えた方がいい」
老人は脚立を持ってきたが、すぐには直さなかった。
その日、店では奇妙なことが起きた。
客たちが、何度も外を見ていたのだ。
風向きが分からない。
どちらへ向けばいいのか、目印がない。
誰も口には出さなかったが、店の空気は妙に重かった。
夕方、若い会社員がぼそりと言った。
「あれ、直さないんですか」
老人は窓の外を見た。
「別に困らないだろ」
男は返事をしなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、男は小さく笑った。
「いや、困るんですよ」
「みんなどっち向いてるのか、分からなくなるから」
老人はその言葉を聞いて、初めて納得した。
街の人間は、風見鶏を見ていたのではない。
互いに、風見鶏を見ている人間の顔を見ていたのだ。
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