灯台守のいない港
ある港では、夜になると船乗りたちが灯台へ油を運んでいた。誰かのためではない。自分もまたいつか帰港するからだった。しかし船の出入りが激しくなり、顔も名前も残らなくなると事情が変わる。油を運ばない者ほど得をし、運んだ者ほど損をするように見え始めたのである。やがて灯台は皆の財産ではなく、使い切るための備品へ変わった。港を壊したのは悪人ではなかった。ただ、灯りを残す理由が消えただけだった。
- キーワード
- 港、灯台、油、旅人、模倣、信用、匿名、流動、短期利益、共同体
灯りの油
海沿いの小さな港に、大きな灯台があった。
その灯台は古く、立派でもなかった。石を積んだだけの塔である。だが夜になると火が灯り、沖の船に帰る場所を教えた。
港の人々は交代で油を運んでいた。
漁師も商人も船大工も運んだ。誰も好きでやっていたわけではない。油は高価だったし、運ぶ手間もあった。それでも運んだ。
理由は単純だった。
今日海へ出る者は、明日帰ってくる者でもあったからである。
灯台が消えれば困るのは自分だった。
だから油を運ぶ行為は親切でも美談でもなかった。ただの日常だった。
ところが港が栄え始めると、遠くから大勢の船が来るようになった。
見知らぬ船が朝に現れ、夕方には消える。
乗組員の顔は覚えられない。
名前も残らない。
誰が油を運び、誰が運ばないのか分からなくなった。
それでも最初のうちは問題は起きなかった。
昔からの習慣が残っていたからである。
港はまだ、昨日と同じ場所に見えていた。
乾いた帳簿
ある日、一人の若い船長が気付いた。
自分は一滴も油を運んでいないのに、毎晩灯台は光っている。
それどころか、浮いた金で船を増やせた。
荷物も多く積めた。
儲けも増えた。
港では彼が成功者として語られた。
誰も油の話をしなかった。
人々が見ていたのは大きくなった船だけだった。
その話は広まった。
別の船長も真似をした。
さらに別の船長も真似をした。
やがて油を運ばないことが珍しくなくなった。
むしろ油を運ぶ者の方が不思議に見え始めた。
なぜわざわざ自分の懐を減らすのか。
なぜ他人のために働くのか。
そんな声が増えた。
実際には誰も灯りそのものを否定していなかった。
皆、灯台は必要だと思っていた。
ただ、自分が油を運ぶ必要はないと思ったのである。
灯りは欲しい。
だが油は出したくない。
そう考える人間は一人ではなかった。
そして一人でなくなった瞬間から、それは考えではなく風景になった。
港には油を運ばない船が増え続けた。
不思議なことに、運ばない者ほど裕福に見えた。
だから話はさらに広がった。
港の子供たちでさえ知っていた。
油を運ばない方が得だと。
誰も知らない帰港日
年月が過ぎた。
港は以前より大きくなった。
船も増えた。
取引も増えた。
だが灯台の火は少しずつ弱くなった。
油を運ぶ者が減ったからである。
誰も気付かなかったわけではない。
気付いていた。
ただ、自分が困るのは今日ではなかった。
来月かもしれない。
来年かもしれない。
あるいは自分が港を去った後かもしれない。
だから急ぐ理由がなかった。
その頃になると、港には旅人ばかりになっていた。
長く留まる者は少ない。
稼いだ者から別の港へ移っていく。
灯りが弱くなったとしても、それを見る頃には自分はいない。
そんな者が増えた。
昔の漁師たちは不思議に思った。
なぜ皆、帰る場所を削っているのだろうと。
しかし答えは簡単だった。
帰るつもりのない者にとって、灯台は故郷ではない。
通り道に置かれた便利な道具に過ぎない。
道具なら使い切る方が得である。
残しておく理由はない。
港は変わったのではない。
港を見ている人間の時間が変わったのである。
最後に消えたもの
ある嵐の夜だった。
沖から一隻の船が帰ってきた。
船長は若かった。
油を運んだことは一度もない。
それでも灯台があることは当然だと思っていた。
子供の頃から、ずっとそこにあったからである。
だがその夜、灯りは見えなかった。
塔は立っていた。
火だけがなかった。
油が尽きていたのである。
船は暗闇の中をさまよった。
岸は近かった。
それでも見つからなかった。
翌朝、船は岩場で見つかった。
港の人々は集まり、灯台を見上げた。
石の塔は昔と変わらなかった。
崩れてはいない。
壊れてもいない。
ただ灯りだけがなかった。
そこでようやく人々は気付いた。
失われたのは灯台ではなかった。
油でもなかった。
もっと前に別のものが消えていたのである。
誰かが油を運ぶだろうという期待である。
港はその期待を燃やして光っていた。
だから塔は最後まで立っていた。
灯りが消えた夜は終わりではなかった。
終わっていたことが、ようやく見えるようになった夜だった。
コメント
コメントを投稿