静かな回廊で眠る社員

要旨

古い巨大な会社には、昼でも薄暗い回廊がある。そこでは働く者を守るための扉が、幾重にも並んでいた。病気の扉、育児の扉、在宅の扉。誰もが弱った者を救うための装置だと思っていた。しかしある男は、その扉を出口ではなく住居として使い始める。人々は最初、その姿を見ても気づかなかった。なぜなら彼は制度に逆らわず、むしろ制度が望む言葉を完璧に話していたからである。

キーワード
休職、在宅勤務、育児休業、評価制度、巨大企業、静かな退却、回廊、仮眠室、金融資産、長期停泊

回廊の入口

その会社の廊下は長かった。

朝になると、磨かれた床を革靴が滑っていく。誰もが急いでいた。営業は数字を追い、企画は会議室を渡り歩き、管理職は眠そうな顔で資料を抱えていた。そこには普通の会社にある種類の疲労が、均等に沈殿していた。

廊下の途中には、いくつか白い扉があった。

健康相談室。復職支援窓口。育児支援センター。在宅勤務相談室。

どれも静かな名前だった。そこを通る者は、たいてい疲れていた。人事部は言った。無理をしないでください。会社は支えます。多様な働き方を尊重します。

それは優しい言葉だった。

実際、その扉に救われた者は多かった。家族を介護する者。眠れなくなった者。通勤電車に乗れなくなった者。小さな子供を抱えて泣きそうになっていた者。

だから誰も、その扉を疑わなかった。

扉は、通過するためのものだったからだ。

しばらく休み、また戻る。そのための場所だった。

男が最初に診断書を持って現れたときも、誰も気にしなかった。

三十代半ば。無口。成績は中くらい。社内政治には興味がなく、飲み会にも来ない。だが特別に問題のある社員でもなかった。

ただ、少し乾いた目をしていた。

上司は気の毒そうに言った。

「最近、負荷が高かったからな」

人事は静かに頷いた。

「しっかり休んでください」

男は頭を下げた。

誰も、そのときは気づかなかった。

彼が廊下を歩いていたのではなく、回廊の地図を読んでいたことに。

柔らかな椅子

半年後、男は戻ってきた。

以前とは別の部署だった。窓際に近い席。電話は少ない。数字の責任も軽い。上司は穏やかな人物だった。

会社は配慮したのである。

それは正しい行為だった。

だが男は、感謝しているようには見えなかった。ただ静かに席へ座り、定時になると帰った。

翌年、彼は在宅勤務制度を使い始めた。

画面の向こうで会議に参加し、必要な言葉だけを話した。会社は柔軟性を誇った。新聞にも載った。「社員を大切にする先進企業」。社長は笑顔で写真に写っていた。

男はその記事を保存もしなかった。

彼にとって重要なのは理念ではなく、回廊の配置だったからである。

守られる者 - 出世欲 = 説得不能な社員

周囲は徐々に違和感を覚え始めた。

同期は昇進試験を受け、深夜まで働き、資格を取っていた。だが男は違った。評価面談でも、自分の将来を語らない。

「今後どうなりたい?」

部長にそう聞かれても、彼は曖昧に笑うだけだった。

会社は、人が前へ進みたがることを前提に作られている。

給料を上げたい。役職が欲しい。認められたい。

だから査定がある。競争がある。席順がある。

だが男は、そのどれにも乗っていなかった。

彼は階段を上がろうとしていなかったのである。

だから、降格も脅しにならなかった。

周囲はそこで初めて気づく。

会社が恐れているのは、辞める社員ではない。残り続ける社員なのだと。

辞める者には出口がある。しかし残る者には、椅子が必要になる。

しかも静かな椅子ほど、処理に困る。

男は騒がなかった。反抗もしない。理念を否定しない。むしろ会社が好む単語を、丁寧に使った。

  • 無理のない働き方
  • 心理的安全性
  • 育児との両立
  • 多様性への理解

それらを口にするたび、人事部は弱くなった。

なぜなら、その言葉は会社自身が配っていたからである。

窓のない部屋

やがて男に子供が生まれた。

彼は迷わず育児休業を申請した。

上司はまた頷いた。

「家庭を優先してください」

誰も反対できなかった。

反対する側が、古い人間に見えるからである。

制度は増え続けていた。

弱った者を守るため。家庭を守るため。多様な人生を認めるため。

だが、それぞれの扉は別々に作られていた。

病気の扉を抜けた先に、育児の扉があることを設計者は深く考えていなかった。

さらにその奥に、時短勤務の扉が続いていることも。

男はただ、順番に開けていった。

短い休息 × 連続接続 = 終わらない滞在

数年が過ぎた。

彼は相変わらず会社にいた。

ただし、昔のようには働いていなかった。

責任は軽く、拘束時間は短く、評価は低い。

しかし給料は完全には落ちなかった。

巨大企業には、そういう余白がある。

年功。組織維持。一律処理。波風回避。

それらが幾重にも積み重なると、奇妙な空洞が生まれる。

男はそこへ座っていた。

同期たちは疲れていた。

管理職になった者は夜中に呼び出され、若手育成に悩み、数字を追い、部下の退職に怯えていた。

一方で男は、昼過ぎに散歩していた。

投資の画面を見ながら。

彼は別に裕福ではなかった。ただ支出が少なかった。見栄もなかった。高級車にも興味がない。昇進祝いの時計もいらない。

必要なのは、会社を辞めない程度の接続だけだった。

ある若手社員が、飲み会でぽつりと漏らした。

「あの人、何のために会社にいるんですかね」

誰も答えなかった。

だが部長だけは知っていた。

会社とは本来、登るための建物である。

しかし、ときどき住み始める者が現れる。

そして住民になった者は、競争しない。

競争しない者は、敗北しない。

最後の仮眠室

男が五十代に入った頃、会社は早期退職制度を始めた。

新聞はそれを「新しい挑戦への支援」と書いた。

実際には、静かな整理だった。

古い椅子を減らし、若い空気を入れる。そのためのものだった。

人事部は対象社員へ説明会を開いた。

割増退職金。再就職支援。円満な卒業。

男は最後列で資料を読んでいた。

表情は変わらなかった。

彼は計算していたのではない。

もう確認していただけだった。

回廊の終点を。

数週間後、彼は制度を利用した。

退職理由は自己都合ではなかった。会社都合に近い形になった。積み上がった金額は、同期が想像するより多かった。

最終出社の日、総務の女性が言った。

「長い間、お疲れさまでした」

男は軽く会釈した。

段ボール箱は小さかった。

机に私物がほとんどなかったからである。

夕方、彼は一階ロビーを歩いた。

若い社員たちが急ぎ足でエレベーターへ向かっていた。誰も彼を見なかった。

自動ドアが開き、外の風が入った。

男は一度だけ振り返った。

長い廊下の奥に、白い扉が並んでいた。

弱った者を休ませるために作られた、小さな仮眠室の列だった。

だが、そのうちの一つには、もう何年も住んでいた人間がいたのである。

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