予定表の空白が怖い人間
机の上に紙が一枚ある。ただの紙ではない。返事を待つ連絡、あとで出す書類、いつか決める予定。人はそれを「未処理」と呼ぶ。だが、ある種類の人間にとって、それは置かれた瞬間から形を変える。紙は紙でなくなり、部屋の空気をゆっくり削る何かになる。だから彼らは、予定を組み、終わらせ、消そうとする。几帳面だからではない。落ち着きたいからでもない。空白を残したまま次の音が鳴ることを、体が許さないのである。
- キーワード
- 未完了、割り込み、予定表、先回り、空白
机の上の紙
朝、机の上に紙を一枚置かれる。
電気代の通知でもいい。返信待ちのメッセージでもいい。来週決める予定でもいい。内容はどうでもいい。重要なのは、「まだ終わっていない」という印だけだった。
普通の説明では、それは不安と呼ばれる。
人は未処理を嫌う。だから整理したくなる。早く終わらせたくなる。几帳面な人ほどそうなる。そんなふうに説明される。
たいていは、そこで話が終わる。
少し休みましょう。
気にしすぎないようにしましょう。
完璧でなくて大丈夫です。
そう書かれた文章は静かだ。刺激が少なく、角もない。湯気の消えた白湯みたいな文章である。
だが、机の前に座っている本人は、別のものを見ている。
紙が増える速度だ。
一枚ある。
そこへ電話が来る。
返事を書こうとしている途中で別件が届く。
棚の奥から忘れていた封筒が見つかる。
その瞬間、頭のどこかで小さな音がする。
まだ二枚。
いや、四枚。
違う。これは増える。
そう気づいた人間だけが、急に動き始める。
予定表を開く。
分類する。
順番を決める。
終わらせる。
だが、予定を書き込んだだけでは止まらない。
処理済みの印が必要になる。
線を引きたい。
消したい。
紙そのものを、視界から消したいのである。
鳴り続ける音
昔、小さな町に古い印刷所があった。
昼になると機械が回る。
夕方には止まる。
仕事は山積みだったが、終業時間という境界が存在した。明日でも間に合うものがあり、待ってくれる相手がいた。
だから、人は途中で止まれた。
未完成のまま帰宅できた。
ところが、ある時代から、その境界が崩れ始める。
連絡は夜にも来る。
返事は数分単位になる。
予定は確定前に変更される。
処理待ちのものが、止まっていてくれない。
しかも厄介なのは、量ではなかった。
いつ来るかわからない。
これだった。
大雨は怖くない。
天気予報があるからだ。
だが、空が晴れているのに、突然、天井から水が落ちてくる部屋では、人は眠れなくなる。
その部屋で暮らす人間は、床に物を置かなくなる。
いつ水が落ちてもいいように、片づけ続ける。
未完了というのは、そういう種類のものだった。
あとでやればいい。
空いた時間に片づければいい。
そう言える人間は、「あと」が存在する場所に住んでいる。
一方で、別の人間は知っている。
あとでやる予定だった書類の上に、別の用事が落ちる。
その上に電話が乗る。
さらに誰かの都合変更が積まれる。
すると、最初の紙は見えなくなる。
消えたわけではない。
埋まっただけだ。
埋まったものは腐る。
腐ったものは臭いを出す。
臭いは新しい紙を呼ぶ。
だから彼らは、紙を積まない。
積む前に燃やそうとする。
予定を立てるのは整理ではない。
呼吸の確保である。
空白の防衛
人はよく、「そんなに急がなくても死なない」と言う。
たしかに、その日のうちに返信しなくても、多くの場合は死なない。
洗濯物を畳まなくても死なない。
来週の予定を今日決めなくても死なない。
一つずつなら。
問題は、一つずつ来ないことだった。
ある種類の人間は、知っている。
崩れる時は、一気に来る。
体調不良。
予定変更。
期限。
確認漏れ。
連絡。
再提出。
再確認。
それらは列になって来ない。
横から同時に押し寄せる。
そして奇妙なことに、本人は「未来の惨事」を想像しているわけではない。
もっと単純で、もっと乾いた感覚だった。
空きがなくなる。
それだけである。
机の上。
予定表。
頭の中。
どこでもいい。
空白が埋まる。
すると、次のものを置く場所が消える。
だから彼らは、異様な速さで消し込みを始める。
返信。
予約。
確認。
買い物。
提出。
一つ終えるたびに安心するのではない。
「次が来ても置ける」
という感覚を取り戻すだけである。
だから、周囲が言う「完璧主義」は、少し違う。
彼らは美しく終わらせたいわけではない。
理想形を追っているわけでもない。
むしろ逆だった。
雑でもいい。
粗くてもいい。
とにかく閉じたい。
閉じて、空白を作りたい。
未来の何かが飛び込んできた時、その場で潰れないために。
最後の一枚
ある男は、毎晩、机を空にしてから眠った。
皿を洗う。
返事を書く。
明日の予定を決める。
書類を鞄に入れる。
終わるまで眠らない。
周囲は言った。
「そんなに急がなくても」
「明日でもいいのに」
男は笑った。
説明するのが面倒だったからだ。
ある夜、珍しく、一枚だけ紙を残した。
明日返せばいい連絡だった。
疲れていたので、そのまま寝た。
夜中、電話が鳴った。
親族が倒れたという知らせだった。
男は飛び起き、着替え、病院へ向かった。
朝まで帰れなかった。
昼過ぎ、自宅へ戻った時、机の上に昨夜の紙が残っていた。
ただ、それだけだった。
だが男は、その紙を見た瞬間、ひどく嫌な気分になった。
まるで、自分の部屋に小さな穴が開き、そこから水が入り始めているような感覚だった。
男は急いで返事を書いた。
送信したあと、やっと椅子に座った。
安心したからではない。
次に何か来ても、もう一枚置ける場所が戻ったからだった。
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