恋愛市場の養殖池
若い男女が互いを嫌い始めた、と人々は言う。動画は毎日その理由を解説し、誰かが泣き、誰かが怒り、誰かが「理解し合おう」と語る。しかし奇妙なことに、その話題だけは終わらない。終わるどころか、毎日新しい燃料が投げ込まれる。まるで巨大な池で魚を育てるように、怒りと孤独が静かに飼育されている。ここで育てられているのは男女対立ではない。対立を見続ける習慣そのものだ。
- キーワード
- 孤独市場、恋愛競争、短い動画、怒りの習慣、養殖池
静かな池
昔の恋愛は、もう少し狭い場所で壊れていた。
学校で断られる。職場で避けられる。近所で噂になる。傷はあっても、半径数十メートルで終わった。ところが今は違う。朝、目を覚ますと、見知らぬ誰かの失恋が流れている。昼には「男はこうだ」という動画が回り、夜には「女はこうだ」という配信が始まる。駅のホームでも、布団の中でも、怒った異性の顔が小さな画面から覗いている。
人々はそれを「社会問題」と呼ぶ。
専門家は、価値観の断絶だと言った。政治家は、若者の不安だと言った。司会者は、対話不足だと言った。どれも間違いではない。ただ、それだけでは妙に説明できないことが残る。
なぜ、この話題だけは終わらないのだろう。
戦争なら停戦がある。事件なら捜査終了がある。流行にも飽きが来る。だが男女対立だけは、毎日少しずつ新鮮になる。昨日と同じ話なのに、今日はもっと刺激的に見える。
ある青年は、恋愛の相談動画を見ていた。最初は静かな内容だった。「自信を持とう」「清潔感が大切」。だが数週間後には、「女は弱い男を見下す」という動画を勧められていた。
別の少女は、安全対策の動画を見ていた。最初は夜道の注意だった。だが数週間後には、「男は常に加害候補」という切り抜きを見続けていた。
二人とも、自分で選んだつもりだった。
だが池の水流は、最初から決まっていた。
穏やかな話は、途中で閉じられる。怒った話は、最後まで見られる。そして最後まで見られた話は、もっと広い場所へ運ばれる。
池は静かだった。ただ、静かに循環していた。
餌を投げる人
動画の向こう側には、いつも説明役がいる。
「男たちは追い詰められている」
「女たちは危険にさらされている」
「社会が壊れている」
彼らは深刻そうな顔をする。しかし奇妙なことに、誰も池を埋めようとはしない。
なぜなら、魚が減ると困るからだ。
対立を語る配信者は、怒っている視聴者を必要とする。怒りは毎日確認しなければ薄れる。だから次の日には、もっと強い映像が必要になる。昨日は失礼な発言だったものが、今日は「異性全体の本音」に変わる。
そこでは、例外が消える。
親切な男も、静かな女も、映らない。画面に残るのは極端な人物だけだった。怒鳴る男。嘲笑する女。裏切る恋人。冷笑する司会者。そういう顔ほど数字を連れてくる。
やがて視聴者は、現実より画面を信じ始める。
電車で隣に座る異性より、毎日流れてくる短い動画の方が「本当の姿」に見えてくるからだ。
そしてもう一つ、不思議な現象が起きる。
孤独が、仲間の印になる。
「自分も傷ついた」
「自分も裏切られた」
「自分も選ばれなかった」
そう語るたびに、拍手が返ってくる。慰めが届く。仲間が増える。
すると回復は、少し困ったことになる。
元気になれば、その共同体から離れてしまうからだ。
だから池の中では、完全には治らない方が都合がいい。少し怒り、少し傷つき、少し怯えた状態が、一番長く留まる。
池を眺める人々は、それを「居場所」と呼んだ。
見えない柵
街では、別の話が進んでいた。
家賃は上がり、仕事は不安定になり、結婚は遠くなった。だが不思議なことに、その怒りは、あまり上へ向かわない。
代わりに、横へ流れる。
男は女を見る。女は男を見る。互いの言葉を監視し、小さな失敗を巨大化する。
その方が簡単だからだった。
見えない巨大な壁に怒るより、目の前の異性に怒る方が疲れない。動画も作りやすい。拍手も集まりやすい。
だから池には、毎日新しい餌が投げ込まれる。
- 恋愛相談。
- 浮気暴露。
- 年収談義。
- 容姿評価。
- 割り勘論争。
どれも些細な話だ。だが、池の中では巨大化する。
若い男は、自分が「選ばれない側」にいる気がしてくる。若い女は、自分が「狙われる側」にいる気がしてくる。
そして両方とも、画面を見る時間が増える。
昔、人は近所で恋愛した。今は市場で比較される。
比較は終わらない。
もっと格好いい誰か。
もっと若い誰か。
もっと金を持つ誰か。
無数の候補が並ぶ場所では、人間は相手ではなく、順位を見るようになる。
順位を見始めた瞬間、関係は取引に変わる。
そして取引は、敗者を毎日生む。
水面の顔
ある夜、青年は動画を閉じた。
そこには三時間前と同じ話が流れていた。男は苦しい。女は怖い。社会は狂っている。司会者は深刻そうに頷き、コメント欄は怒りで埋まっていた。
だが、その瞬間、青年は少し奇妙なことに気づいた。
誰も終わらせようとしていない。
怒っている視聴者。
泣いている相談者。
煽る配信者。
数字を数える会社。
全員が池の周りに立っているのに、誰も水を抜かない。
むしろ、水位が下がりそうになるたび、新しい餌が投げ込まれる。
男女は敵なのではなかった。
敵意そのものが、商品だった。
そして商品は、消費されるほど補充される。
青年はスマートフォンの黒い画面を見た。そこには、自分の顔が映っていた。疲れた顔だった。
池の水面を覗き込む魚の顔に、少し似ていた。
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