反応の速い人

要旨

昔は、返事が遅れるだけで胸がざわついた。机の上に紙が一枚残っているだけで、どこか落ち着かなかった。ところが、ある日そのざわつきは消える。静かになった。余裕もできた。にもかかわらず、人は前より速く動くようになる。届いたものをすぐ片づけ、返し、終わらせる。本人は「楽になった」と思っている。しかし、静かになった部屋で鳴り続けているものがある。聞こえなくなっただけで、止まったわけではない。

キーワード
即応、習慣、未完了、静寂、反射

静かな机

男は、少し安心していた。

前の職場では、いつも何かに追われていた。通知が鳴る。呼ばれる。横から仕事が差し込まれる。昼に始めた作業が、夕方には何だったのか分からなくなる。そんな毎日だった。

だが部署が変わった。

割り込みは減った。電話も少ない。背後から急かす声もない。机の上は静かだった。以前より眠れるようになったし、休日にまで仕事のことを考えることも減った。

だから男は、自分は落ち着いたのだと思っていた。

ところが妙なことがあった。

メールが来ると、すぐ返す。
頼まれごとが入ると、すぐ終わらせる。
書類も、その場で処理する。

別に急いでいるつもりはない。焦ってもいない。ただ、目の前に現れたものを、自然に片づけているだけだった。

同僚は言った。

「仕事が早いですね」

男は曖昧に笑った。

昔ほど切羽詰まっていない。なのに、前より速く動いている気がした。

不思議だった。

消えた音

ある晩、男は古いアパートの廊下で、水道の音を聞いた。

ぽたり。
ぽたり。

誰かの部屋から、水が落ちる音がしていた。

気になるほど大きくはない。だが、一度聞こえると耳に残る。男は、自分の部屋に入っても、その音を思い出していた。

翌日、管理人が来て修理した。

夜になると、音は消えた。

男は安心した。静かだった。

だが数日後、奇妙なことに気づいた。

自分が蛇口を閉める時、以前より強く締めている。

確認も増えた。出かける前に一度閉め、数歩歩いてから戻り、もう一度触る。水滴など一つも落ちていないのに、指だけが勝手に動く。

音は消えたのに、動きだけが残っていた。

男はそこで、少し嫌な感じがした。

人は、騒がしい間だけ反応するわけではない。

むしろ、本当に厄介なのは、静かになった後なのかもしれない。

前は、不安が行動を押していた。

今は違う。

考えるより先に、体が片づける。

不安の消失 = 停止 ではない
不安の消失 = 動作の無音化

そのころから男は、自分の行動を観察するようになった。

机に書類が一枚置かれる。
すると、その存在が頭の隅に張りつく。

すぐ終わる内容なら、なおさらだった。
五分で済む。
二分で返せる。
一行書けば終わる。

すると逆に、置いておく理由がなくなる。

気づけば手が動く。

終わる。

消える。

その瞬間だけ、部屋の空気が少し軽くなる。

男は、その軽さを知ってしまっていた。

速い人たち

街には、速い人が増えた。

返事の速い人。
決断の速い人。
着手の速い人。

皆、落ち着いて見える。

昔のように怒鳴る上司も減った。露骨に急かす声も少なくなった。だが、その代わりに別のものが増えた。

  • 既読
  • 通知
  • 未返信
  • 保留
  • 期限

どれも静かだった。

静かなまま、人を押していた。

電車の中でも、人々は小さな光を見つめている。返事を書き、予定を埋め、届いたものを消していく。

それは勤勉というより、掃除に近かった。

放置すると、机の上に積もる。

だから払う。

また積もる。

また払う。

誰も命令していない。
だが、全員が同じ動きをしていた。

男はある日、喫茶店で友人と会った。

友人はスマートフォンを机に伏せたまま言った。

「最近、余裕できたんだよね」

その直後、震動音が鳴った。

友人の指は、会話の途中で動いていた。

画面を見る。
返す。
閉じる。

わずか十秒だった。

友人は話を続けた。何事もなかったように。

男は、その手つきを見ていた。

速い。

だが、急いでいる感じはない。

まるで、熱い鍋に触れた時の反射みたいだった。

その瞬間、男は分かった。

人は、苦しみながら動いている間は、自分の苦しみに気づける。

だが、本当に深く染み込んだものは、静かな顔をしている。

最後の一枚

その夜、男は机の上に紙を一枚置いた。

急ぎではない。
今日やる必要もない。

だから残してみた。

部屋は静かだった。

だが、妙に落ち着かなかった。

紙は何も言わない。ただそこにあるだけだった。

男は本を開いた。
閉じた。
水を飲んだ。
時計を見た。

紙はまだあった。

やがて男は立ち上がり、その紙を処理した。

終わった。

部屋が少し軽くなった。

その時、男はようやく理解した。

自分は「急がされていた」のではない。

先に終わらせた時の、あの静けさに飼い慣らされていたのだ。

昔は、背後から音が聞こえていた。

今は違う。

音そのものが、自分の手になっていた。

コメント

このブログの人気の投稿

感情の手紙と確かめられぬ事実

静かなる信号機の守衛

フレンドリストの底で眠るもの