責任という名の薄い膜
「責任ある○○」という言い回しが、いつの間にか街の看板のように増えている。耳ざわりは良いが、触れてみると中身は驚くほど軽い。本稿では、その言葉がどのようにして行いの重さを薄め、誰が何をしたのかを曖昧にする仕組みを、日常の風景を手がかりに静かにたどる。最後に残るのは、責任とは本来どこに宿るものだったのかという、素朴な問いだけだ。
- キーワード
- 責任、言葉、曖昧さ、日常、転嫁
■ 玄関先の「責任ある」貼り紙
ある住宅街を歩いていると、電柱に「責任ある飼い主を目指そう」という貼り紙があった。犬の散歩中にふと立ち止まり、その文言を眺めた。
「責任ある」と書かれているのに、誰が何をするのかは書かれていない。拾うのか、しつけるのか、近所に挨拶するのか。どれも含まれるようで、どれも含まれない。
この曖昧さは便利だ。読む側は「まあ、いいことだ」と思う。書く側は、具体的な約束を避けられる。その瞬間、言葉は薄い膜のようになり、触れれば破れそうでいて、しかし破れない。
理由は簡単で、膜の向こう側にあるはずの「行い」が、最初から描かれていないからだ。
■ 「責任ある○○」が増える理由
最近は、政治の場でも企業の広告でも、「責任ある」という枕詞がよく使われる。責任ある支援、責任ある投資、責任ある判断。どれも耳に心地よい。だが、心地よさは往々にして、何かを隠す。
たとえば、ある会社が「責任ある値下げ」を宣言したとする。値下げは値下げだ。そこに責任があるかどうかは、後から分かる話だ。それでも「責任ある」とつけるだけで、行いの重さが和らぎ、判断の背景が整っているように見える。
光沢のある言葉は、曖昧さを包み込み、まるで丁寧に磨かれた商品であるかのように見せる。しかし、包まれているのは空洞かもしれない。
■ そして始まる「責任ある責任転嫁」
問題は、事がうまくいかなかったときに現れる。
「当時としては責任ある判断だった」 「専門家の意見を踏まえた責任ある対応だった」
こうした言い回しは、どこかで聞いたことがあるはずだ。ここで不思議な現象が起きる。責任を強調する言葉が、いつの間にか責任を遠ざける道具に変わるのだ。
たとえば、料理を焦がしたときのことを思い出してほしい。「レシピ通りにやった」「火加減は慎重に見ていた」そう言えば、焦げた鍋の前に立つ自分の罪悪感は少し薄れる。しかし、鍋は焦げたままだ。
同じことが、もっと大きな場面でも起きる。「責任ある」と宣言しておけば、後から「やるべきことはやった」と言いやすくなる。その結果、責任は煙のように散り、誰の手にも残らない。
宣言が強ければ強いほど、結果が悪かったときの説明は容易になる。奇妙な逆転だが、日常の中ではよく見かける。
■ 透明な箱の中に残るもの
では、責任とはどこにあるのか。「責任ある○○」という言葉が増えるほど、その所在は見えにくくなる。まるで透明な箱に入れられたかのように、形はあるのに輪郭がつかめない。
ある町内会で、清掃当番の割り振りが曖昧になったことがあった。「みんなで責任を持ってやりましょう」と言った瞬間、誰も動かなくなった。誰の番でもあり、誰の番でもない。その結果、落ち葉は積もり、風に舞った。
責任とは、本来は重さを持つものだ。しかし、言葉で薄められた責任は、重さを失い、風に乗ってどこかへ行ってしまう。残るのは、落ち葉のように積もった結果だけだ。
■ 最後に残る問い
「責任ある○○」という言葉は、便利で、柔らかく、争いを避ける。だが、その柔らかさは、肝心なものを溶かしてしまう。
貼り紙の前で立ち止まったあの日のように、言葉の光沢に目を奪われる前に、その奥にあるはずの「行い」を、そっと確かめてみる必要がある。
そこに何もなければ、膜だけが残る。
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