硝子細工の正義と、塗り替えられる地図のゆくえ
私たちの日常を支えているのは、誰もが疑わない「正しいルール」という名の清潔な包帯です。隣の家が壊されれば憤り、遠くの街で火の手が上がれば涙を流す。しかし、その涙の温かさが、実は誰かの手によってあらかじめ温度調節されているのだとしたらどうでしょう。本稿では、私たちが信じてやまない不変の価値観が、特定の関係性というインクで書き換えられていく、静かな変質の正体を見つめます。
- キーワード
- 透明な定規、境界線の引き方、鏡の国の約束、名前のない力
庭の境界線と、見えない消しゴム
ある朝、窓の外を眺めると、隣の家の住人が庭の生け垣を勝手に切り崩し、自分の敷地を広げている光景に出くわしたとしましょう。あなたは当然、眉をひそめます。それは明らかなルール違反であり、他人の平穏を乱す身勝手な振る舞いに見えるからです。あなたは正義感に突き動かされ、町内会の会合でその無作法を厳しく指弾するかもしれません。「決められた境界線は守られるべきだ」という言葉は、誰の耳にも心地よく、正しい響きを持って響き渡ります。
ところが、もしその生け垣を切り崩したのが、あなたに多額の融資をしてくれている恩人や、あるいは町全体に電気を供給している有力者だったとしたらどうでしょうか。さらに、彼が「これは防犯のために必要な措置なのだ」と微笑みながら説明したとしたら。あなたは先ほどと同じ熱量で、彼を非難できるでしょうか。おそらく多くの人は、口を閉ざすか、あるいは「まあ、彼なりの深い事情があるのだろう」と自分を納得させるための理屈を探し始めるはずです。
私たちが「主権」や「正義」と呼んでいるものは、実はこの庭の生け垣をめぐる心理描写と非常によく似ています。ある国が別の国を力で押さえつけたとき、私たちはそれを「許されざる暴挙」と呼びます。しかし、それが特定の親密な相手による行動である場合、同じ物理的な破壊現象が、なぜか「仕方のない手続き」や「平和のための調整」という、穏やかな名前のラベルに貼り替えられてしまうのです。このラベルの貼り替え作業こそが、現代という舞台の裏側で休むことなく行われている、最も巧妙な手品の正体です。
温度の消えた天秤
私たちは、物事を測るための「定規」が常に一定の長さを保っていると信じています。1メートルはどこへ行っても1メートルであり、悪はどこで見ても悪であるはずだと。しかし、現実の国際社会で手渡される定規は、握る人の体温や、その時の湿気によって伸び縮みする特殊な素材で作られています。
特定の誰かが振るう武力は「平和への脅威」として測られますが、別の誰かが振るう同じだけの武力は「安全への投資」として目盛りが読み取られます。このとき、定規そのものに欠陥があるわけではありません。定規を当てる前に、あらかじめ「どの目盛りで読むべきか」というマニュアルが配布されているのです。
私たちは、このマニュアルを「良識」や「現実的な判断」という言葉で受け入れます。もし、この伸び縮みする定規の矛盾を真っ向から指摘してしまえば、自分たちが立っている地面そのものが崩れてしまうことを、本能的に察知しているからです。私たちは、自分たちの生活を守ってくれる強力な後ろ盾との関係を維持するために、あえて視力を弱める道を選びます。見えていないふりをするのではなく、最初から「見えないように設計された眼鏡」を、自ら進んで装着するのです。
この数式が示す通り、私たちが発する「非難」の言葉に含まれる純粋な正義の成分は、計算を重ねるごとに希釈されていきます。最後に残るのは、誰が敵で誰が味方かという、原始的な色分けだけです。言葉は、事実を記述するための道具から、自分たちの立ち位置を確認するための合図へと退化してしまいます。
地図から色が消えるとき
さて、こうした舞台装置が完璧に機能し続けると、世界はどうなるのでしょうか。あらゆる行為の正しさが、行為そのものの内容ではなく、「誰が行ったか」という属性にのみ依存するようになります。A氏が壁を壊せば犯罪ですが、B氏が同じ壁を壊せばリフォームと呼ばれる。このような論理が徹底された場所では、もはや「壁を壊してはいけない」というルールそのものに意味はなくなります。
ルールとは、誰に対しても等しく適用されるからこそ、予測可能性という安心を生むものです。しかし、特定の利害関係によって適用が恣意的に選別されるシステムの中では、言葉はただの「盾」に成り下がります。自分たちが攻撃するときは「正義の盾」を掲げ、他人が攻撃してくるときは「法の盾」で防ぐ。そこにあるのは、言葉による保護ではなく、言葉による隠蔽です。
私たちがどれほど高潔な理想を語ったとしても、その根底にある「特定の誰かへの配慮」という重しが取り除かれない限り、その言葉に主権を保護するような実質的な力は宿りません。それは、中身の詰まっていない精巧な硝子細工のようなものです。見た目は美しく、光を反射して輝きますが、何らかの衝撃が加わった瞬間に、粉々に砕け散ってしまいます。そしてその破片は、守るはずだった人々を傷つける刃へと変わるのです。
終わらない物語の結末
ある科学者が、どんな嘘も見破ることができる完璧な機械を発明しました。彼はその機械を手に、世界中の指導者たちの演説を検証して回りました。ある指導者が「我々は自由と民主主義を守るために行動する」と叫んだとき、機械は真っ赤なランプを点灯させました。また別の指導者が「平和のためのやむえない措置だ」と語ったときも、機械は激しい警告音を発しました。
最後に科学者は、自国の政府が発表した「普遍的な価値観に基づく抗議声明」を機械にかけました。機械は一瞬、複雑な計算を行うかのように沈黙しましたが、やがて何も表示しなくなりました。故障かと思った科学者が裏蓋を開けてみると、そこには埃ひとつ付いていない綺麗な回路があるだけでした。
機械が沈黙したのは、嘘をついていたからではありません。その声明に使われていた言葉に、重さも、体温も、実体も、何ひとつとして含まれていなかったからです。そこにあったのは、ただの「空気を震わせる波形」だけでした。
科学者は静かに機械を片付け、窓の外を見ました。そこでは今日も、伸び縮みする定規を持った人々が、楽しそうに新しい地図を描き続けていました。誰もがその地図が正しいと信じ、隣の家の生け垣が少しずつ削られていく音に、誰も耳を貸そうとはしませんでした。
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