鏡を運ぶ人は嫌われる
人は真実だけを見て暮らしているわけではない。目の前へ差し出された事実が、自分の顔、信じてきた仲間、積み上げた暮らしを揺らすなら、まず向けられるのは事実への問いではなく、それを持ち込んだ者への視線である。嫌われるのは見抜く力ではない。鏡を運んできた存在なのである。
- キーワード
- 鏡、思い込み、評判、沈黙、見抜く力、共同体、真実、違和感
曇りガラスの町
町には一枚の大きな鏡があった。ただし誰もそれを鏡とは呼ばなかった。窓と呼ぶ者もいれば、飾りだと言う者もいた。そこへ映る顔は少しだけ柔らかく見えたからである。疲れは薄れ、傷は目立たず、年齢も少し若く映る。誰も困らなかった。毎朝その前を通り、少し安心して仕事へ向かった。
ある日、一人の職人が町へ来た。彼は古い鏡を磨く仕事をしていた。町の鏡を見るなり布を取り出し、静かに表面を磨き始めた。曇りは落ちた。映る顔も変わった。今まで見えなかった細かな傷や疲れまで映るようになった。
最初に口を開いたのは老人だった。「前のほうが良かった。」誰も反論しなかった。鏡は正確になった。しかし町は少しだけ居心地を失った。
静かな入れ替わり
数日が過ぎると、不思議な変化が起きた。誰も鏡の映り方を議論しなくなったのである。その代わり、職人について語る者が増えた。
- あの人は物事を悪く見る癖がある。
- 人の欠点ばかり探している。
- 町を暗くしたのは鏡ではなく、あの人だ。
職人は何も言い返さなかった。ただ鏡を磨いただけだからである。
やがて子どもたちまで「あの人は人を値踏みする」と覚えた。誰も「鏡は本当に間違っているのか」とは尋ねなかった。話題は少しずつ場所を変えていた。映っているものではなく、映した人へ移っていた。
それは怒りというより、習慣に近かった。顔より鏡を責めるほうが、朝は静かに始まるからである。
鏡を割る理由
町には医者もいた。彼は静かに言った。「傷を見れば痛む。それは自然なことだ。」誰も異論はなかった。しかし町が困っていたのは痛みではなかった。痛みを思い出させる存在だった。
古い家は古いままでいられる。約束も続けられる。昨日まで信じていた話も崩れない。そうした穏やかな流れは、一枚の鏡で乱れることがある。
そのため、鏡を割る理由はいつも鏡の外に置かれる。
職人は失礼だった。空気を読まなかった。冷たい人間だった。その説明は便利だった。鏡の映り方を調べなくても済むからである。
もちろん、職人がいつも正しいとは限らない。磨きすぎれば歪む鏡もある。勘違いもある。しかし町はその確かめ方を選ばなかった。職人の話が正しいかではなく、職人がいなくなれば以前の朝へ戻れるかを先に考えた。
最後に残った鏡
季節が変わるころ、職人は町を去った。町は少し明るくなったと言われた。鏡には再び薄い曇りが戻った。傷は目立たなくなった。人々は安心して通り過ぎた。
ただ、一人の少女だけは時々立ち止まった。曇った鏡を指で拭くのである。ほんの小さな丸い跡だけが澄み、その中には疲れた自分の顔が映った。
少女は顔をしかめなかった。ただ小さくうなずいた。
その姿を見た老人は首を振った。
「あの子も、人を見るようになった。」
少女は誰も見ていなかった。見ていたのは、鏡だけだった。
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