切符のない乗客
人は自分が選ばなかったものへの支払いよりも、自分には乗る資格がなかった列車への支払いに強い違和感を抱く。社会は未来のためという言葉で多くの金の流れを説明する。しかし説明と体感は別である。ある男は給与明細を見ながら、自分が列車の外に立ったまま、その運賃だけを払い続けているのではないかと考え始めた。
- キーワード
- 給与明細、結婚、家族、列車、違和感、再分配、尊厳、日常
窓の向こうの列車
男は毎月同じ封筒を開いていた。数字が並び、数字が消え、最後に残った数字が自分の取り分になる。それだけだった。
若い頃は気にしなかった。金は社会を回る。学校へ行く子どもにも、病院へ行く老人にも、道路にも橋にも流れていく。その説明は理解できた。
ある日、駅のホームで列車を見た。
それは家族連れで混み合う普通の列車だった。窓際には子どもが座り、親が笑っていた。ただそれだけの光景だった。
だが男は妙なことを考えた。自分はこの列車に乗ったことがない。そして、おそらくこれからも乗らない。
それでも運賃だけは払っている。
そんな考えが頭をよぎった。
誰も嘘をついていない
周囲の人々は善意で話した。
子どもは未来だと言った。次の世代がいなければ町は消えると言った。男も否定しなかった。事実として正しいと思ったからだ。
誰も男を攻撃してはいなかった。
誰も男から何かを奪ったと言わなかった。
だからこそ厄介だった。
列車は必要だった。乗客も必要だった。運転士も必要だった。説明は整っていた。
ただ一つだけ説明されないことがあった。
ホームに残された者は何者なのか。
その問いだけが空白だった。
男は結婚したかった時期があった。だが年月は思ったより早く過ぎた。収入は伸びなかった。物価は上がった。気づけば話題は恋愛から住宅へ変わり、住宅から老後へ変わっていた。
列車は遠ざかっていた。
男は乗らなかったのではなく、乗り損ねたのかもしれないと思った。
見えない改札
改札口は存在しない。
少なくとも目には見えない。
だが確かにある。
十分な収入。安定した仕事。将来への見通し。そうしたものが静かに積み重なり、人によっては自然に通過できる。
一方で通れない者もいる。
誰かに押し返されたわけではない。警備員が立っているわけでもない。
それでも通れない。
そして不思議なことに、改札を通れなかった者も列車の維持費だけは払い続ける。
男が抱いた違和感はそこにあった。
子どもが嫌いなのではない。
家族が憎いのでもない。
そうではなく、自分が必要とされなかった場所を支える役目だけは残されているように見えたのである。
もし最初から列車など存在しなければ、男はここまで考えなかっただろう。
もし誰にでも乗車券が配られていたなら、やはりここまで考えなかっただろう。
男を黙らせたのは負担ではない。
負担の意味だった。
最後の案内放送
ある月も給与明細が届いた。
数字は少し変わっていたが、仕組みは変わらなかった。
男は封筒を閉じた。
その夜、駅の近くを歩いた。
列車が到着し、列車が出発した。
人々は乗り込み、人々は降りた。
男はホームに立ったまま眺めていた。
そこでようやく気づいた。
自分は列車に乗りたいのではなかった。
本当に知りたかったのは別のことだった。
なぜ自分がホームにいるのか。
なぜ運賃だけは請求されるのか。
その二つだった。
列車は夜の闇へ消えた。
ホームに残った男の足元には、一枚の切符も落ちていなかった。
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