見えない檻の住人たち

要旨

町の中央には誰にも見えない檻があった。人々はその存在を否定しながら、毎日その格子を磨いていた。最初は少しだけ気にしていた他人の視線が、いつしか生きる理由になり、最後には苦しみの説明書になった。誰かが檻の外を指差しても、人々は空を見ず、格子の太さだけを議論する。これは美しさの話ではない。自分で閉めた扉を、誰かに閉じ込められたと思い込む話である。

キーワード
視線、比較、承認、檻、順位、鏡、群衆、物語

朝の広場に置かれた鏡

ある町の広場には大きな鏡が置かれていた。

誰が置いたのかは誰も知らない。昔からそこにあったので、人々は疑問を持たなかった。

町の人々は朝になると鏡の前を通る。髪を整える者もいれば、服の皺を伸ばす者もいる。それ自体は特別なことではなかった。顔を洗うのと同じ程度の習慣だった。

ただ、年を追うごとに鏡の前に立つ時間が少しずつ長くなった。

自分を見るためではなく、隣に立つ人を見るためである。

鏡の中には自分だけでなく、周囲の人々も映っていた。

昨日より整っている者。 昨日より輝いて見える者。 昨日より注目を集めている者。

人々は鏡を見ながら、自分を見ているつもりだった。 だが実際には違った。

彼らが測っていたのは顔ではなく順位だった。

鏡を見る時間 = 自分への関心 + 他人との距離測定

順位は便利だった。

何かを考えなくてもよかったからである。

自分がどんな人間なのか。 何を好きなのか。 何を作れるのか。 どこへ向かいたいのか。

そうした面倒な問いを後回しにできた。

鏡の中で上にいるか下にいるか。 それだけで今日の気分を決められた。

だから町の人々は鏡を愛した。

そして少しずつ鏡に支配された。

格子のない檻

ある日、一人の男が広場で叫んだ。

「この町は不公平だ」

人々は耳を傾けた。

男は続けた。

「鏡に恵まれた者ばかりが得をする」

すると何人もの人が頷いた。

確かにそう見える場面はあった。 人は整ったものに目を向ける。 それは昔から変わらない。

だが奇妙なことが起きた。

男は鏡の影響を語り始めたはずなのに、いつの間にか人生の説明をすべて鏡に任せるようになった。

仕事がうまくいかない。 鏡のせいだ。

恋人ができない。 鏡のせいだ。

誰も話を聞いてくれない。 鏡のせいだ。

失敗の理由は一つに統一された。

その説明は非常に使いやすかった。

なぜなら考えることが減るからである。

人間は複雑な迷路よりも単純な地図を好む。 たとえその地図が間違っていてもである。

やがて男の周囲には仲間が集まった。

彼らは同じ言葉を繰り返した。

  • 原因は一つである。
  • 答えも一つである。
  • 説明はすべてそこへ帰着する。

話は分かりやすくなった。

しかし世界は狭くなった。

彼らは鏡の存在を嫌っていた。 それなのに一日中鏡の話だけをしていた。

広場を離れても鏡。 食事中も鏡。 眠る前も鏡。

気付けば鏡は広場よりも彼らの頭の中に大きく建っていた。

空を見ない人々

町の外れには古い丘があった。

丘に登ると広場は小さく見えた。 鏡も小さく見えた。

丘へ行く者は少なかった。

理由は単純である。

丘には順位がなかった。

花を育てる者がいた。 絵を描く者がいた。 機械を直す者がいた。

彼らは忙しかった。

誰かに見せるためではなく、自分の時間を使っていたからである。

すると広場の人々は不思議そうな顔をした。

「あいつらはなぜ平気なんだ」

答えは単純だった。

平気なのではない。

視線以外に使う場所があるだけだった。

だが広場の人々には理解しづらかった。

彼らの世界では視線が通貨だった。

視線を集める者が豊かであり、失う者が貧しい。

だから丘の住人たちは異様に見えた。

他人の視線で呼吸している人間から見ると、自分の肺で呼吸している人間は奇妙に映るのである。

視線への依存 × 比較の反復 = 自分で閉める扉

最後に残ったもの

長い年月が流れた。

広場の鏡は以前より何倍も大きくなった。

人々は毎日そこへ集まった。

だが不思議なことに、鏡が大きくなるほど満足する者は減っていった。

誰かより上へ行っても、その上にまた誰かがいた。

鏡は終わりを用意しなかった。

ある夜、一人の老人が広場を通った。

老人は鏡を見上げて首を傾げた。

「これはいつ檻になったのだろう」

近くの若者が笑った。

「檻なんてないよ」

老人は頷いた。

確かに格子はなかった。 鍵もなかった。 見張りもいなかった。

だが誰一人として広場から離れようとしなかった。

老人は鏡の表面ではなく、その前に並ぶ人々を見た。

そして静かに言った。

「そうか。檻があるのではない。人が檻になったのだな」

翌朝も広場には人々が集まった。

誰かが鏡を磨き、誰かが順位を数えた。

その中で、昨日と同じように不満を語る者もいた。

彼らは自分を縛る格子を探していた。

ただし、その格子は最初から外にはなかった。

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