自称「話し上手」の静かな市場
自己を「話し上手」と称する者たちが増えた。表面は礼儀と自信だが、その裏には短いやり取りで済ませようとする仕組みがある。本稿は看板の比喩を用し、なぜ言葉の掲示が評価を代替するのかを描き、最後にその仕組みが生む不可避の帰結を示す。
- キーワード
- 自己申告、選抜、看板、観察の手間
看板のある通り
通りには店が並ぶ。どの店も入口に小さな看板を掲げている。「話し上手」「協調性あり」「チームで活躍」などと、短い言葉が並ぶ。通行人は一瞬だけ看板を眺め、次の店へと進む。看板は便利だ。遠くからでも店の性格が分かるように見える。だが、看板が増えると、通行人の目は疲れる。どの看板も似た文句を並べると、違いは薄れる。看板の有無が店の中身を決めるわけではない。だが、通行人は看板で判断する。時間は限られているからだ。
看板を掲げる理由
店主は看板を作る。作るのに大した手間はかからない。言葉を選び、紙に書き、入口に掛けるだけだ。店主が本当に腕があるかどうかは、店の中で客と向き合う時間が必要だ。だが、その時間を通行人は割かない。通行人は短い滞在で決めたい。だから、看板が有利に働く。腕のある店も、腕のない店も、看板を掲げる。掲げない店は見落とされる。結果として、看板は「あるかないか」の二値で評価されるようになる。看板の言葉は、店の実際の振る舞いと切り離される。
看板の市場が生むもの
看板が氾濫すると、通行人の判断は鈍る。似た看板が並ぶと、通行人は別の手がかりを探すが、短時間では見つからない。そこで、看板以外の簡単な印が重視される。例えば、店の外観の明るさ、店員の笑顔、写真の有無。これらは看板と同じく浅い手がかりだ。深い観察は行われない。深い観察には時間と注意がいる。誰がその時間を払うのか。店主でも通行人でもない。だから、浅い手がかりが選抜の基準になる。看板を掲げる行為は、店主の本当の技量を示すよりも、店主が短い場面で自分を示す術を持っているかを示すようになる。
この式は単純だ。観察にかける手間は、得られる利益と、誰が結果の責任を負うかで決まる。責任を他へ移しやすければ、観察は省かれる。看板はその省略を助ける。責任が薄ければ、通行人は看板で妥協する。結果として、看板の言葉は実力の代理となる。
看板の夜明けと終わり
ある夜、通りの一角で小さな出来事が起きた。新しい店が看板を出さずに開店した。店主は静かに客を迎え、長い時間をかけて話をし、注文を受け、客は満足して帰った。翌日、その店は静かに評判を得たが、広がりは遅かった。通行人の多くは相変わらず看板を頼りに歩く。やがて、別の店が大きな看板を掲げ、派手な言葉で客を集めた。客は一度入ってみるが、期待と違うこともあった。だが、次の客はまた看板を見て入る。こうして通りは回り続ける。
最後に残るのは二つの事実だ。看板は便利であると同時に、便利さが過剰になると判断を鈍らせる。看板を掲げる行為は、店の中身を示すよりも、短い場面で自分を示す術を持つ者を有利にする。看板を掲げない店は、長い時間をかけて信頼を築くしかない。どちらが正しいかは通りの設計次第だ。通りを設計する者が、短い滞在で選ぶ仕組みを好めば、看板は力を持ち続ける。設計を変え、滞在を長くする仕組みを作れば、看板は意味を失う。
結末は静かだ。看板の通りは続く。看板を掲げる者と掲げない者が混在する世界は、誰かの選択で変わる。だが、今の通りでは、看板を掲げることが合理的な選択になっている。看板を掲げない者は、通りの流れに逆らう者として残る。通行人はいつか気づくだろうか。あるいは、新しい通りが作られるだろうか。どちらにせよ、看板は今日も入口に掛かっている。
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