見えなくするという指導
ある学校で動画が広まり、全校集会が開かれた。語られたのはSNSの危険と規律の大切さだった。だが、その指導は本当に子どもを守るためのものだったのか。見えなくすることで守られるのは何か。見えることで困るのは誰か。本稿は、可視化を奪うという行為が、いつのまにか責任の所在を塗り替えていく過程をたどる。
- キーワード
- いじめ、全校集会、可視化、責任、閉鎖空間
ガラス箱の学校
校庭の隅に、ガラスでできた箱が置かれていると想像してみる。中では何が起きているのか、外からよく見える。子どもたちは笑い、時にぶつかり合う。箱は透明だから、大人たちは安心する。問題があれば、すぐに分かるはずだと。
ところがある日、その箱の中で起きた出来事が、小さな四角い画面を通して外へ流れ出した。誰かが撮り、誰かが送った。ただそれだけのことだ。だが学校は驚いた。箱の中の出来事が、箱の外で語られている。
やがて体育館に全員が集められる。壇上の教師は言う。「SNSは危険だ。軽い気持ちで投稿してはいけない」子どもたちはうなずく。画面の向こうは怖い場所だと教えられる。
それはもっともらしい話に聞こえる。外は荒れている。知らない誰かが傷つける。だから扉を閉めよう。箱の中で静かに暮らそう。そうすれば安全だ、と。
曇らせたガラス
しかし不思議なことがある。あの日、問題になったのは、撮られたことだったのか。それとも起きたことそのものだったのか。
ガラス箱が透明であるかぎり、中の出来事は外から見える。だが見えるということは、箱の中にいる者にとっては落ち着かない。見られているという感覚は、行いを慎ませる。同時に、見られる側の不都合も照らす。
そこでガラスに曇り止めを塗る。外からはぼんやりとしか見えない。理由は簡単だ。「外は騒がしいから」。だが曇らせることで、まず困らなくなるのは誰か。
箱の中で強い立場にいる者は、外からの視線を失っても痛くない。むしろ都合がいい。逆に、弱い立場にいる者は、外へ向けて助けを求める道を一つ失う。
それでも全校集会では、出来事はこう言い換えられる。「校則を守ろう」人が深く傷ついた話は、やがて「投稿はよくない」という一般論に溶ける。
式は単純だ。見えなければ、数えなくてよい。数えなければ、責任もまた薄くなる。
集会という魔法
全校集会は便利な装置だ。千人を前にして一度に語れば、個別の出来事は背景へ退く。重い話も、規律の一項目になる。
壇上からは、誰の名も呼ばれない。誰が傷つき、誰が追い込まれたのか。具体は消え、抽象だけが残る。
ここで静かな選択が行われている。「一人の命の重さ」を正面から扱うのか。それとも「全体の秩序」という言葉で包むのか。
秩序は扱いやすい。紙に書ける。掲示できる。指導した事実も残せる。だが一人の痛みは扱いにくい。向き合えば、箱の内側の構造そのものに触れねばならない。
曇ったガラスの中で起きたことは、やがて報告書の一行になる。「SNS利用について注意喚起を行った」
それは間違いではない。ただ、焦点がずれているだけだ。
透明であるという罰
もしガラス箱が再び透明になったらどうなるか。外の目は戻る。箱の中にいる者は落ち着かない。だが同時に、強い立場の者もまた慎むだろう。見られるという事実は、行動を変える。
見えることは、罰ではない。見えなくすることが、ある種の免罪になる。
可視化を取り上げる指導は、表向きは保護だ。だが実際には、箱の内側で物事を決める権限を、再び箱の管理者へ戻す働きを持つ。
外へ向けて叫ぶ道を塞ぎ、内側で解決するという形を整える。整っているように見えるが、整えたのは机上の形だけかもしれない。
ガラス箱は、今日も校庭に置かれている。曇っているのは、外気のせいではない。内側から塗られた薄い膜のせいである。
そして子どもたちは、曇りの向こうで起きたことを、もう一度画面に映すかどうかを考える。見えないほうが平和だと教わりながら。
コメント
コメントを投稿