言葉はいつ別の服を着るのか
ある人は言葉そのものを問題にしたつもりだった。別の人は、その言葉が示す働きを説明した。やがて最初の人は、最初から別の話をしていたと語り始める。聞いている側には穏やかな修正のように映るが、机の上では札だけが静かに入れ替わっている。議論が噛み合わなくなる理由は、意見の違いよりも、問いそのものが途中で別の姿へ着替えてしまうからである。
- キーワード
- 言葉、問い、入れ替え、前提、意味、印象、議論、札替え
机の上の白い札
町役場の古い応接室には、大きな机が一つ置かれていた。机の上には白い札が並び、来客が話す題目を書いて置く決まりになっていた。札があるおかげで、途中で話が散らからない。それだけのための道具だった。
ある日、一人の男がやって来て、一枚の札に短く書いた。
「この言い方はおかしい。」
それを見た相手は札を読み、なぜおかしくないのかを順番に説明した。言葉が指すものと、言葉が表す動きを分けて話したのである。聞いていた人々は、少なくとも今は同じ札を見ていると思っていた。
ところが説明が終わる頃、最初の男は静かに言った。
「私は最初から、その言葉が部屋の空気をどう変えるかを話していた。」
部屋は静かだった。誰も大声を出してはいない。それでも何かがずれた気配だけは残った。
誰も見ていない手元
応接室には古い時計が掛かっていた。その時計は時間よりも、人の手元をよく見ているようだった。
男は札を裏返したわけではない。破ったわけでもない。ただ、同じ場所へ別の札を重ねただけだった。
最初の札には、「この言葉は成り立つのか」と書かれていた。
重ねられた札には、「私はこう受け取った」と書かれていた。
二枚は似ている。しかし同じではない。
前者は言葉そのものを測る問いであり、後者は聞いた人の胸に残る形を語る問いである。どちらも口にできる。どちらも話題になる。ただし、一方への返事をそのままもう一方へ移すことはできない。
応接室では誰もその違いを責めなかった。だが、返事は最初の札へ向けて作られている。そこへ二枚目を重ねると、返事だけが古い札を見続け、新しい札は返事を受け取らない。
- 問いを替えることと、問いを深めることは同じではない。
- 説明を加えることと、出発点を書き換えることも同じではない。
- 聞き手は言葉よりも札の位置を見失いやすい。
だから議論は続いているようで、実際には一本道から隣の道へ移っていることがある。
借り物の鍵
男は続けて、小さな鍵を机へ置いた。
「この鍵なら開くだろう。」
その鍵は、先ほど相手が机へ置いたものとよく似ていた。違うのは、削られている場所だけだった。
相手は先ほど、「ある言葉は、まだ本物かどうか分からないものへ向けられる。しかし別の言葉は、本物だと決めた後で使われる。」と説明していた。
男はその形を借りて言った。
「その言葉を使うだけで、もう決めているように聞こえる。」
鍵は借り物だった。
削り方を少し変えただけで、まるで最初から自分の鍵だったように机へ置かれた。
見ている人は新しい説明を聞いたと思う。けれど机の上では、借りてきた形が静かに置き直されているだけだった。
もちろん、人は話しながら考えを改める。それ自体は珍しくない。珍しくなるのは、改めたことではない。改めた場所を最初からそこだったと言い始めた瞬間である。
その瞬間、相手は説明を続けているつもりでも、聞く側は地図を書き換えられたことに気付く。
最後まで残った一枚
日が暮れる頃、応接室は片付けられた。
机の上には一枚だけ札が残っていた。
役場の老人は札を裏返した。
裏には小さく日付が書いてあった。
最初に置かれた時刻である。
それを見れば、その札がいつ机へ現れたのかは誰にも分かる。あとから重ねられた札は、その日付を書き換えられない。
老人は札を箱へ戻し、鍵も一緒にしまった。
そして応接室の灯りを消した。
暗い部屋には何も残らなかった。ただ、最初の札が置かれた時刻だけは、最後まで動かなかった。
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