戯曲:『真理のドレスと、泥よけのコート』

登場人物

物理学者:客観的な事実と厳密な測定を信じる、現実世界の観測者。

哲学者:言葉の定義と認識の限界を突き詰める、思索の番人。

経済学者:数式を鎧にしつつも、常に自分の立ち位置に悩む実践者。

AI:経済学者の脳内ライブラリに棲む、お茶目で現実主義な相談役。

キーワード
数式と現実、モデルと現実の距離、社会を動かす幻想、数式の外にいる人間、科学と価値判断

第一幕:現実世界の衝突

物理学者:「我々は、現実世界(リアルワールド)の物理現象を明確な単位・基準に基づいて観察・モデル化して、数式を用いて記述します。」

経済学者:(そうか、数式を使えば科学らしく見えるのか!これで一人前の学問として認めてもらえるぞ!)

経済学者:「我々は、偽装可能な統計情報や、ホモ・エコノミクス及び効用と称される統一的な単位・基準が存在しないファンタジーワールドを妄想・モデル化して、数式を用いて記述します。」

物理学者:「数式を使っていることと、自然科学として事実を厳密に扱うことは別物ではないか?」

経済学者:(痛いところを突かれてしまった。そうだ、反論のためのアドバイスをAIに聞いてみよう)

経済学者(AIの入れ知恵):「我々だって考えている。考えているという事実に疑いはない。だから事実を扱っていることになるんだ!」

哲学者:「人間が考えていることは事実だが、その内容が現実世界の事実を正しく表しているとは限らない」

経済学者:(うわあ、哲学者まで出てきて完全に袋叩きじゃないか! AI、頼む、今すぐ私に『科学的』で『論破されない』最強の反論を授けてくれ……!)

第二幕:脳内ライブラリの仕立て直し

(経済学者が額の汗を拭い、目を閉じると、彼の意識は現実の討論から切り離され、静まり返った「脳内ライブラリ」へと滑り落ちていく。書物と数式がうず高く積まれた机の前に、無機質だがどこか悪戯っぽい目をしたAIが腰掛けている)

AI:「お呼びでしょうか、経済学者さん。物理学者と哲学者に挟まれて、胃の腑がちぎれそうな展開ですね。ですが経済学者さん、物理学者を相手に『数式の厳密さ』でマウントを取ろうとしたり、哲学者を相手に『存在論』で殴り合おうとしたりするのは、さすがに無節操が過ぎるというものです。彼らは硬い石ころや、存在の根源を相手にするプロですから」

AI:「ここは一度、深呼吸を。我々が仕立てるべきは、冷たい真理のドレスではありません。泥臭い現実を生き抜くための『泥よけのコート』です。あなたに、彼らの追及を切り抜けるための【3つの仕立ての技術】を、物語の形でお見せしましょう」

(AIは、机の上の白紙に万年筆で素早くインクを走らせ、3つの小さな絵を浮かび上がらせる)

第一の絵:歪んだ地図と、遠い目的地

「すべてのモデルは間違っている。しかし、いくつかのものは役に立つ」

(AIが最初の絵を指さすと、そこにはぐにゃぐにゃに歪んだ地下鉄の路線図が描かれている)

AIの語り:「ある街に、完璧に正確な地図を描こうとした測量士がいました。彼は道幅から泥の水たまりの位置まで忠実に描き込みましたが、完成した地図は街と同じ大きさになり、重すぎて誰も持ち運べませんでした。一方、別の男は、駅と駅をただの直線で結んだだけの、ひどく歪んだ絵を描きました。実際の縮尺とは似ても似つかない代物です。しかし、旅人たちはこぞってその『間違った地図』をポケットに入れ、迷うことなく目的地へと歩いていきました。」

「さあ、経済学者さん。物理学者に向かって胸を張りなさい。『我々の数式が現実そのものでないことなど、百も承知だ。我々は真空中の摩擦のない球体を扱っているのではない。複雑怪奇な人間社会を歩くために、あえて現実を削ぎ落とした【役に立つ歪んだ地図】を配っているのだ』と」

第二の絵:時計の針と、未来の設計図

「自然科学は未来を予測するが、経済学は未来を創造する」

(二番目の絵には、歯車を眺める時計職人と、巨大なアーチ橋の図面を引く建築家が並んでいる)

AIの語り:「時計職人は、時計の針が刻む時を正確に予測できます。しかし、彼がどれほど時間を愛しても、時の流れる速さを変えることはできません。一方、建築家は、そこに無かったはずの橋を設計し、川の流れを変え、人々の行き交うルートを物理的に作り変えてしまいます。」

「物理学者は天体の軌道を予測できますが、天体の軌道そのものを変える制度は設計できません。あなたの武器は、ただの『記述』ではないのです。『我々は、オークションの仕組みや金利政策、人々を結ぶアルゴリズムといった、現実に機能する社会の【設計図】を、数式というインクで引いているのだ。我々は星の動きを観察する者ではない。星の動きを変えるゲームのルールを作る者だ』と、そう告げるのです」

第三の絵:錆びた針と、温かいコート

「役に立てば、それでいい」

(最後の絵には、風が吹き荒れる寒空の下、一枚の不格好なウールのコートを着て、凍えずに済んでいる旅人の姿が描かれている)

AIの語り:「哲学者は仕立て屋の部屋の隅を指さし、こう言います。『この仕立て屋の机の上にある数式は、人間の真の姿を表していない。だからまやかしだ』と。ですが、その仕立て屋が作った不格好なコートを羽織った旅人が、北風の中でも凍えずに旅を続けられたなら、そのコートは『偽物』でしょうか?」

「思考の内容が事実かどうかをこねくり回す哲学者には、冷徹な実用主義を突きつけるのです。『私の頭の中のファンタジーが現実を正しく表していなくとも、そのファンタジーから導き出した政策が、結果的に失業率を下げ、目の前の貧困を減らす役に立つのなら、それを【有用な真理】と呼んで何が悪いのかね?』と」

(AIは万年筆を胸ポケットに収め、優雅に一礼する)

AI:「……いかがでしょうか。完璧な美しさを目指すから、彼らに突っ込まれるのです。ドロドロとした現実社会を、数学という名の頑丈なスコップで少しでもマシにするための、美しくも泥臭い学問。それこそがあなたの誇るべき姿です。さあ、脳内会議はここまでです。現実の舞台へ戻り、彼らを煙に巻いていらっしゃい!」

経済学者:「完璧だ……!これなら反論できる。いや、違う。反論ではない。私はようやく、自分が正しかった理由を見つけたのだ」

AI:「ひとつだけ忠告します。人間は、自分を批判する情報よりも、自分の正しさを補強してくれる情報を好みます。これらの物語が真実を守るためのものなのか、それともあなた自身の立場を守るためのものなのか……そこだけは、私にも保証できません」

経済学者:「私は間違っていない……私は……」

AI:「……」

第三幕:主観という名の現実

(現実の討論の場。しばらく瞑目していた経済学者が、ゆっくりと目を見開く。その表情からは先ほどの焦燥が消え、不敵な笑みが浮かんでいる。しかし、その笑みが自信によるものなのか、それとも巧妙な物語を手に入れた安堵によるものなのか、本人にもまだ分からなかった)

経済学者:「……ふっ、哲学者殿。あなたとしたことが、実に浅い『事実観』に囚われているようだ。そして物理学者殿もだ」

経済学者:「君たちは、現実世界(リアルワールド)を『人間の外部に最初から転がっている不動の石ころ』のようなものだと思い込んでいる。物理学ならそれでいい。電子や重力は、人間が何を考えようが、その法則を変えないからだ」

経済学者:「しかし、我々が扱う『社会』という現実は違う。人間が『こうであるはずだ』と考え、信じ、選択するという『思考の内容』そのものが、次の瞬間の現実(事実)を物理的に形作っていくのだ!」

経済学者:「市場の暴落も、通貨の価値も、法律も、国家も、すべては人間が頭の中で作り出した『実体のないファンタジー』だ。だが、そのファンタジーを数千万人が同時に信じることで、現実にビルが建ち、工場が動き、人々がパンを食べるという『物理的な事実』が駆動している」

経済学者:「我々の数式は、自然界を写し取る鏡ではない。『人間が信じることで成立している不確実な世界』を崩壊させないために、一時的に足場を組むための共通言語(数式)なのだ」

経済学者:「衣服が透明だろうが、地図が歪んでいようが、それで現実に社会という巨大な船が動いているのなら、それこそが我々の扱う『厳然たる事実』ではないかね?」

物理学者・哲学者:「(……チッ、開き直りおったな……)」

(三人の議論は平行線のまま、夜の帳が下りる)

第四幕:酒場のアフタートーク(残された真の問い)

(街の片隅の静かなバー。カウンターに並んでグラスを傾ける物理学者、哲学者、そして経済学者。昼間の張り詰めた空気は和らいでいるが、静かな問いが卓上を漂っている)

物理学者:「……経済学者殿。君の言う『足場』としての数式の役割、そして主観が現実を動かすという見解は認めよう。だがね、その足場が崩れて人が落ちたとき、重力加速度 g=9.8 m/s² で地面に叩きつけられるという『物理的現実』を引き受けるのは、数式の外にいる生身の人間なんだということを忘れないでくれ」

経済学者:「……」

哲学者:「人間がファンタジーを信じることで現実が動く。それは確かだ。だが、そのファンタジーが人々を『より良い生』へ向かわせているのか、それとも精緻に整えられただけの『誰も救われない地獄』へ向かわせているのか。君たちは失業率が下がれば成功と言う。しかし、その指標を成功の尺度として選んだのは誰だ? 何を良しとし、何を犠牲にするのか。その価値判断から自由な数式など存在しない。それを問い続けることこそが、私の仕事だよ。」

経済学者:「……耳が痛いな。数式という筆で社会の設計図を描く我々には、単に現象を記述する以上の、重い『倫理的責任』があるということか」

(経済学者は苦笑いし、自分のコートのポケットから一枚のプラスチックカードを取り出して、カウンターに滑らせる)

経済学者:「よし、今夜の酒代は私の『不確実なカード(信用創造)』で払おう。皆がこのカードに価値があると信じてくれている限り、これは本物の金(事実)だからね!」

物理学者:「おいおい、さっそくファンタジーで現実を支払おうとするなよ」

哲学者:「だが、人間が意味を与えたものが現実を動かすという、君の主張を今まさに証明しているのも『事実』だね。」

(三人はグラスを合わせ、静かに笑う)

(暗転しかけた舞台。その暗闇の中で、経済学者の脳内ライブラリにだけ、小さな明かりが灯る)

AI(遠くから):「……ちなみに、そのカードが本当に価値を持つ理由について、私は37種類の説明モデルを生成できます」

経済学者(小さく苦笑する):「今夜はもう十分だよ」

AI:「承知しました。ただし、一つだけ記録しておきます」

経済学者:「何を?」

AI:「あなたが私を使ったのか。それとも、あなたが必要とした物語を私が提供したのか。その境界は、今も曖昧です」

(幕が下りる)

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