裁判所が見ないふりをしたもの

要旨

ある判決が告げた「生い立ちの影響は認めない」という一文は、表向きには法の平等を語っているように見える。しかし、その裏側では、長く続いた宗教的な支配や家庭の崩れが、あたかも「本人の努力で乗り越えられる程度の揺らぎ」に押し込められていく。ひびの入った堤防を見ながら「水があふれたのは、最後に触れた指のせいだ」と言い切るようなものだ。この視線の向きが固定されるとき、虐げられた側の歪んだものの見え方は、社会の中で正式に「誤差」として登録されてしまう。

キーワード
裁判、宗教的虐待、責任、認知の歪み、社会通念

静かなニュースとひびの入った堤防

夕方のニュースは、いつも通り淡々としていた。アナウンサーが読み上げるのは、元首相が銃で撃たれた事件の判決結果だ。画面の下には「無期懲役」の文字が並び、その少し上に「生い立ちの影響は認めず」と小さく添えられている。

それを見て、多くの人はこう思うだろう。「どんな事情があっても、人を殺してはいけない。当たり前だ」と。

その感覚自体は、誰も否定しない。堤防を壊した水の流れを止めなければならないことも、誰も疑わない。

ただ、ここで一つだけ立ち止まってみる。

堤防には、事件のずっと前から細かなひびが入っていた。家の中で続いた献金、家計が崩れ、家族が壊れていく。宗教の名のもとに、長い時間をかけて心の中に「逃げ道はない」という刻印が押されていく。

それでも判決は、「最後に堤防に触れた指」だけを見つめる。ひびの歴史は、背景として語られても、判断の中心には置かれない。

そのとき、私たちは何を「当たり前」と呼んでいるのか。静かなニュースの画面は、そこだけをぼかしたまま、次の話題へと進んでいく。

見なかったことにされるひびの歴史

堤防にひびが入るとき、それは一度に起きるわけではない。

最初は、家の中の小さな会話から始まる。「信じれば救われる」「お金は試されている証だ」。財布の中身が減っても、「これは必要なことだ」と言い聞かせる。

やがて、家計は傾き、進学や仕事の選択肢が削られていく。周囲とのつながりも細くなり、「ここを離れたら生きていけない」という思い込みだけが強くなる。

この過程は、外から見れば「選択の連続」に見えるかもしれない。しかし、内側にいる人にとっては、選択肢そのものが少しずつ消えていく道のりだ。

判決が「生い立ちの影響は認めない」と言うとき、その長い道のりは、ひとまとめにされて「事情」と呼ばれる。

表向きの整理 = 事情の列挙 − 判断への反映

事情として語られるが、判断の中心には入らない。

この整理の仕方は、聞き心地がよい。「背景は理解するが、罪は罪だ」と言えば、厳しさと優しさの両方を持っているように見えるからだ。

しかし、ここで一つだけ問うてみる。

「理解する」と言いながら、何も変えないことは、本当に理解と言えるのか。

ひびの入った堤防を眺めて、「ひびがある事情は分かる」と言いながら、補修はせず、「最後に触れた指」だけを責める。それは、堤防の管理者にとっては都合がよい。堤防を作った側も、見て見ぬふりをした側も、責められずに済むからだ。

責任だけを一人に押しつける仕組み

ここで、堤防の周りにいる人たちを思い浮かべてみる。

ひびの上に家を建てた宗教団体、そのそばで長年目をつぶってきた政治家、遠くから眺めていた役所、そして、何も知らずに暮らしていた人々。

判決が「生い立ちの影響は認めない」と言うとき、責任の矢印はどう動くか。

歪んだ責任 = 個人だけ ÷ 背景ゼロ

矢印は、ひとりの行為者に集中する。堤防にひびを入れ続けた手は、図の外に追い出される。

宗教団体にとっては、都合がよい。長年の献金の要求や、家族への圧力が、誰かの暴発の「遠い背景」に押し込められるからだ。

政治家にとっても、都合がよい。宗教団体とのつながりや、規制を先送りにしてきたことが、判決の中ではほとんど触れられないからだ。

一方で、ひびの上を歩かされてきた人はどうなるか。

長い時間をかけて形づくられた「世界の見え方」が、判決の一文によって、「本人の心の問題」に変換される。

「どんなに大変でも、普通の人は人を殺さない」という言葉が、静かに広まる。

その言葉は、表向きには正しい。しかし、そこにはもう一つの意味が紛れ込む。

「殺してしまったのは、あなたが普通ではなかったからだ」

こうして、宗教的な支配や家庭の崩れが生んだ歪んだ視界は、「努力すれば乗り越えられたはずの揺らぎ」として扱われる。

堤防のひびは、見なかったことにされる。見えるのは、最後に触れた指だけだ。

ひびを見ない社会が選ぶ結末

この整理の仕方は、短い目で見れば、社会を落ち着かせる。

「厳しい判決が出た」「法はきちんと機能している」と感じれば、人々は安心する。堤防は壊れたが、「犯人」が捕まり、罰を受けたのだから、と。

しかし、ひびそのものは残る。宗教の名を借りた支配は、形を変えながら続く。家の中で、財布の中で、心の中で。

そして、判決の一文は、静かにこう告げる。

「どれほどひびがあっても、最後に堤防に触れた指だけが悪い」

この言葉を聞き続けると、人々の中に一つの考えが根を下ろす。

「どんなに追い詰められても、踏みとどまれなかったのは、その人の弱さだ」

それは、表向きには自律を称える言葉だが、裏側では、ひびを作った側を守る盾になる。

ひびを作った手は、これからも堤防に触れ続けるだろう。

なぜなら、堤防が壊れたとき、責められるのは、いつも最後に触れた指だけだと、判決が教えてしまったからだ。

コメント

  1. 「生い立ちの影響認めず」という裁判所から社会に対するメッセージについて考える。
    裁判所の判決は、法的一貫性を守るという「局所的な論理」においては正解だが、社会全体に対する「公的メッセージ」としては、宗教的虐待の重大性を切り捨てる「論理的棄却」として機能している。
    この判決は、被害者が抱える「逃れられない認知の歪み」を無視することで、結果的に「虐待は個人の精神力で克服可能な誤差に過ぎない」という誤った社会通念を補強するリスクを内包していないか?

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