男女平等という言葉が覆い隠すもの

要旨

男女平等は、疑う余地のない正義として語られてきた。本稿はその言葉を正面から否定しない。ただし、スポーツという誰にでも分かる舞台を通じて、「平等」という表現が何を見せ、何を見せない仕組みとして働いているのかを丁寧に辿る。結論は静かだが鋭い。私たちは平等を実現しているのではなく、平等に見える状態を保っているにすぎない。

キーワード
男女平等、スポーツ、比較、制度、幻想

「平等」はどこにあるのか

男女平等という言葉を聞いて、不快になる人はほとんどいない。むしろ安心する。そこには「誰もが同じように扱われる」という、心地よい約束が含まれているからだ。

では、その平等はどこで確認できるのか。日常では分かりにくいこの問いに、スポーツは分かりやすい答えを用意している。勝敗がはっきりと示され、数字で並べられる世界。だからこそ、ここでの扱いは象徴的になる。

なぜ分けられているのか

オリンピックを思い浮かべてほしい。陸上、水泳、重量挙げ。多くの競技は、最初から男女に分けられている。理由はよく知られている。「身体の違いがあるから」「同じ土俵では成り立たないから」。

この説明は、直感的には納得しやすい。だが同時に、ある問いを置き去りにしている。「平等」を掲げるなら、なぜ最初から並べて比べないのか、という問いだ。

比べないことで守られるもの

もし男女を分けずに競技を行ったらどうなるか。想像は難しくない。表彰台に立つ顔ぶれは、ほぼ固定されるだろう。そこに意外性はない。

その結果、何が起きるか。多くの人は「不公平だ」と感じる。しかし実際に起きるのは、もっと静かな変化だ。勝てないと分かっている場に、人は集まらなくなる。応援も、注目も、自然と一方に偏る。

分けることは、比べないことでもある。そして比べないことで、消えてしまうはずの舞台が保たれている。

分離 = 比較の停止 → 存在の維持

「平等」という包み紙

ここで重要なのは、分ける行為そのものではない。それが「平等のため」と説明される点だ。分けなければ成り立たない現実を、分けることで隠し、その全体を「平等」という一語で包む。

この包み紙は便利だ。中身の形を問わず、きれいに見せてくれる。だが、包みを外さない限り、中で何が起きているかは見えない。

逃げ場のない結論

ここまで来ると、選択肢は二つしかない。一つは、すべてを並べて比べること。その場合、「平等」という言葉は保たれるが、片方の姿はほとんど消える。もう一つは、分けて続けること。その場合、舞台は残るが、「平等」という言葉は事実を正確には言い表さなくなる。

平等の宣言 − 比較の許可 = 安定した幻想

本稿が示したのは、どちらが正しいかではない。私たちが日常的に使う「男女平等」という言葉が、現実の調整装置として働いているという事実だ。その言葉は嘘ではない。ただ、真実のすべてを語ってはいない。

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