言葉が減る社会の静かな仕組み
新しい種類の不作法が次々と名前を与えられ、注意書きが増えていく社会では、人は慎重になる。だがその慎重さは、やがて会話そのものを細らせる。善意から始まった分類の増殖は、互いの距離を広げる装置へと変わる。本稿は、その変化がどのように起こり、なぜ止まらないのかを、日常の風景からたどる。
- キーワード
- 言葉の縮退、無関与、分類の増殖、沈黙、距離
静かな掲示板の前で
会社の休憩室の壁に、新しい紙が一枚貼られていた。昨日まではなかったものだ。そこには、これまで聞いたことのない種類の不作法がいくつか並んでいる。どれも短い説明が添えられ、最後に「配慮を心がけましょう」と書かれていた。誰もそれを剥がそうとはしない。むしろ、別の紙が増えることを当然のように待っている気配すらあった。
昼休み、誰かが軽口を叩きかけて、途中でやめた。笑いかけた顔が、そのまま静かに戻る。別の誰かが話題を変えようとして、やはり途中で言葉を選び直す。会話は途切れがちになり、やがて天気の話だけが残る。
掲示板の紙は、誰かを守るために貼られたはずだった。しかし、その紙の前で立ち止まる人の数は、日ごとに増えている。
名前の増える街
街には新しい名前が増え続けていた。以前はただの失礼で済んでいたものに、それぞれ固有の呼び名が与えられていく。名前が付くと、それは確かな輪郭を持つ。輪郭ができると、指摘が容易になる。指摘が容易になると、見逃されることは少なくなる。
だが、そこで一つの変化が起きる。人々は「言ってよいかどうか」ではなく、「どの名前に当てはまるか」を先に考えるようになる。言葉は、発せられる前に分類される。分類が曖昧なものほど、口に出されなくなる。
やがて、言葉の数は減り、名前の数だけが増えていく。街は静かになったが、その静けさは安らぎとは少し違っていた。
見えない秤
ある日、上司が部下に助言をしようとして、言葉を飲み込んだ。その助言がどの名前に触れるのか、確信が持てなかったからだ。部下は助言を待っていたが、代わりに曖昧な励ましを受け取ることになった。
その場にいた全員が、同じ見えない秤を思い浮かべていた。何かを言えば、その重さが測られる。測る側の基準は一定ではないが、測られる側の不安だけは一定だった。
この秤の前では、沈黙が最も軽い。誰も傷つけないという点で、沈黙は完全に安全だった。だから、人は次第にそれを選ぶようになる。
誰も触れない部屋
数年後、その会社では新人教育が変わっていた。具体的な指導は減り、代わりに資料が配られる。直接の言葉は、誤解の余地を含むからだという。新人は自分で読み、自分で理解し、自分で間違いに気づくことを求められる。
同僚同士の雑談も減っていた。何気ない一言が、どこかの名前に触れるかもしれない。ならば、最初から言わない方がよい。
不思議なことに、誰もそれを命じてはいなかった。ただ、そうする方が穏やかに過ごせるという感覚だけが共有されていた。
掲示板には、さらに新しい紙が増えている。だが、それを読む人は少なくなっていた。読む必要がないからだ。すでに誰も、そこに書かれていることを試そうとはしない。
部屋は静かだった。静かすぎて、誰かがそこにいるのかどうか、しばらくわからなかった。
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