推しに熱狂する社会が選んだ計算外の道
街角のカフェでも、通勤電車の中でも、人は以前より数字を気にするようになった。時間単価、割引率、効率。だが同時に、説明のつかない出費や遠回りも増えている。本稿は、その矛盾を「推し」という静かな熱狂から読み解く。合理性の言葉で覆われた社会が、なぜ非効率に見える行為を手放せないのか。そこにあるのは反抗でも逃避でもない。計算だけでは測れない価値の置き場所が、別の形で選び直されているという事実である。
- キーワード
- 推し、合理性、感情価値、消費、AI時代
レジ前で止まる一秒
スーパーのレジで、人はよく立ち止まる。特売品と定価品、数円の差。頭の中では暗算が走るが、手に取るのはいつも同じメーカーだったりする。その選択は、得でも損でもない。ただ「慣れている」「好きだ」という理由だけで決まる。社会は長らく、こうした判断を無駄として片づけてきた。しかし無駄は、思ったほど消えていない。むしろ丁寧に守られている。
数字が得意な隣人
計算を任せれば、人より正確で速い存在が身近になった。経路、価格、確率。最短距離は常に提示される。にもかかわらず、人はわざわざ回り道をする。ライブに行くために地方へ移動し、限定品のために並ぶ。その行動は説明されないまま、日常に溶け込んでいる。
計算が完全になるほど、選択の余白は別の場所に移る。そこでは速さも安さも決定打にならない。
「好き」という支払い方法
推しに費やす金額は、しばしば過剰だと評される。しかし当人にとっては、対価を払っている感覚すら薄い。得ているのは物ではなく、位置取りだ。誰かを選び続けている自分である、という確認。その確認は、他人に譲渡も換金もできない。
この式に「無駄」という項目は存在しない。だから止められないし、説明も不要になる。
経済が救われるという幻想
推しの消費が社会全体を潤す、という言い方は心地よい。しかしそれは後付けの物語だ。実際には、限られた財布の中で行き先が変わっているだけで、新しい富が生まれているわけではない。重要なのは別の点にある。計算に強い存在が増えた世界で、人が守ろうとしているのは、効率では奪えない領域だということだ。
推しへの熱狂は社会を救う処方箋ではない。ただ、人が自分の価値の置き場所を手放していない証拠にすぎない。その事実から目を逸らす限り、合理性の議論は何度でも空転する。
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